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人生は苦と理解することがはじまり──『大河の一滴』読書感想文

書名はもちろん聞いたことがあったのですが、ずっと勝手に小説だと思いこんでいました。
本を開いてはじめて「エッセイかっ!」と気づきました。



この世を見る目線

幼い頃の旧満州での「引揚」が、著者の原体験になっているのだなと随所に感じさせる。死と隣り合わせだったその経験を経て、そこから人生の紆余曲折を経て、還暦を超えた著者の、この世に対する若干の諦念を含んだ振り返り。

この世を「生き抜いた」ことのある人たちがたどり着く場所(観念)って、人それぞれ表向きの思想は乖離しているように見えても、実はわりと近しいところにあるんじゃないかって、最近思うのだけど。
この本からもその空気が匂った。

この本の主題はここかなと私は思う。

私たちはふたたび、人間はちっぽけな存在である、と考え直してみたい。だが、それがどれほど小さくとも、草の葉の上の一滴の露にも天地の生命は宿る。生命という言いかたが大げさなら、宇宙の呼吸と言いかえてもいい。
空から降った雨水は樹々の葉に注ぎ、一滴の露は森の湿った地面に落ちて吸い込まれる。そして地下の水脈は地上に出て小さな流れをつくる。やがて渓流は川となり、平野に抜けて大河に合流する。
その流れに身をあずけて海へと注ぐ大河の水の一滴が私たちの命だ。濁った水も、汚染された水も、すべての水を差別なく受け入れて海は広がる。やがて太陽の光に熱せられた海水は蒸発して空の雲となり、ふたたび雨水となって地上に注ぐ。

人はみな大河の一滴(p.25)

読む心境によって異なる解釈ができる文章だと思うが、今の私は以下のように思う。

私たちは「そこにあるもの」だ。
人間が想像も及ばないほどはるかに大きな摂理の中で生きているのだということを認め、「あるがまま」を受け入れるしかない。

自分の存在や行為もそうだ。
どんなに飾り立てても、偽っても、自分そのものというのは一つしかないし、真実は一つしかない。

でも一方で、そのありようを受け入れながらも、その一滴である存在が意志を持った人間として生きることが、大河の中で光を受けて一瞬だけきらめく川面のように、美しい瞬間につながるのだとも思う。

人生は苦しみ。そこからのスタート

〈旱天の慈雨〉という言葉があるが、からからにひび割れ、乾ききった大地だからこそ降りそそぐ一滴の雨水が甘露と感じられるのだ。暗黒のなかだからこそ、一点の遠い灯に心がふるえるのである。
私たちは、人生は明るく楽しいものだと最初から思いこんでいる。それを用意してくれるのが社会だと考えている。しかし、それはちがう。

人はみな大河の一滴(p.19)

四苦八苦。人生は苦しみの連続である。私たちは泣きながら生まれてきた。そして最後は孤独のうちに死んでいくのだ。
大半の人が衣食住満ち足りていて、「明日の命とも知れない」に無縁な今の日本でも、他発的もしくは自発的な苦しみが常に私たちにつきまとっている。

そう覚悟した上で、こう考えてみよう。
「泣きながら生まれてきた」人間が、「笑いながら死んでいく」ことは、はたしてできないものだろうか。

人はみな大河の一滴(p.20)

究極のネガティブ思考に見えて、案外究極のポジティブ思考なのではないかと思った。

折れないための「引き出し」

でも、苦しみの最中にあるときは、そんなこと考えている余裕もない。目の前のことしか見えず、途中でぽっきり折れてしまいそうになる。

人間はだれでも本当は死と隣りあわせで生きている。自殺、などというものも、特別に異常なことではなく、手をのばせばすぐとどくところにある世界なのではあるまいか。
ひょいと気軽に道路の白線をまたぐように、人は日常生活を投げだすこともありえないことではない。ああ、もう面倒くさい、と、特別な理由もなく死に向かって歩みだすこともあるだろう。私たちはいつもすれすれのところできわどく生きているのだ。

人はみな大河の一滴(p.12)

通常の心理状態であれば、犯罪や自死に対して「どうしてそんなことを」と思う。でも一方で、本当に近接したところにその穴がぽっかり空いているのを感じながら生きているという人も多いのではないか。

そんな時、どうすればいいか。

私はこれまで、何度となく重い〈トスカ〉にとりつかれたことがあった。少年時代にもそうだったし、物を書くようになって自立したあともかなり重症の「こころ萎え」る瞬間があった。また六十代の後半にさしかかろうとする最退でも、しばしばそれを感じるときがある。
そんなときに私は、いろんな方法でそこから抜けだそうと試みたものだ。まあ、たいていの場合はうまくいかなかった。結局は、時間が解決してくれるのを待つしかないのだ。時の流れは、すべてをみこんで、けだるい日常生活のくり返しのなかへ運びさっていく。待つしかない。それが人生の知恵というものだろう。それはわかっている。わかってはいるのだが、その重苦しい時間の経過をじっと耐えて待つあいだが、なんともやりきれないのである。

人はみな大河の一滴(p.14)

過ぎてみれば「そうだよね」と思うけど。五木さんも書いているように、やっぱり渦中は辛い。しかも「苦」は主観的なものだから、最終的には自分で乗り越えるしかない。

じっと耐えるのは辛すぎる。
でも乗り越えた先に学びは必ずある。絶対にある。
そうやって「苦」を一つ一つ乗り越えて、苦しみに対する引き出しを一つひとつ作っていく。そうすると、次に来る苦しみに耐えるための引き出しがどんどん増えていく。

同時に他者の苦しみの構図も理解できるようになっていく。そうすると、世界の見え方が少しずつ変化していく。

その繰り返しが人生なのではないかと、私は最近思うようになった。

他者と共有できるのはほんの一部

私には心のなかに深く押し隠しているものがある。そうではない、という声がいつもどこからかきこえてくるのだ。悪いやつが生き残ったのさ、善い人間はみんな途中で脱落していったじゃないか。そのことを忘れたのかね、と。
極限状態のなかを脱落せずに生き残ったのは、人よりつよいエゴ、他人を押しのけてでも生きようという利己的な生のエネルギーの持主たちではなかったのか。そして人一倍身勝手で業の深い者たちだったのではなかったか。

滄浪の水が濁るとき(p.49)

普通に生きていてすら、心というものはいつも脆く崩れる瀬戸際にある。
ましてや極限の状態は、いとも容易く人を変える。
というか、変えないと生きていけないのだと思う。

同じような記述が、以前に読んだ戦争体験記や北朝鮮のルポなどにもあったことを記憶している。
大戦時に満州に出兵していた祖父は、当たり障りのない、ほんの一部しかその時の話を教えてくれなかった(穏やかで優しい、大好きなおじいちゃんでした)。

著者の五木さんは、旧満州の引揚者にインタビューを試みた際に、“深刻な体験をしたであろう人に限って本質をはぐらかすような受け答えをする”という体験を経て、このように心情を書き留めている。

こういうふうに考えてみると、人に憂いあり、というのでしょうか、どんな人間でも心のなかに自分だけの、他人に明かすことのできない、悲しみとか痛みとか、そういうものを、それぞれに抱えて生きているわけです。

ラジオ深夜一夜物語(p.229)

自己はひとつだから他者と丸ごと共有するのは不可能だ。
そういう意味で、私たちは常に孤独だ。

否応なしに流れゆく大河の大きなうねりのなかで、ひとりで自分の人生を抱え、孤独で、苦しい人生を歩まなければならない。

そういう状況がスタートだ。
では、これから私はどうする? どうしたい?

大河の流れに翻弄されながら(状況)、一瞬の輝きを放つために(目的)、ずっと濁流の中をもがき続ける(行動)のかな、と。

当たり前の結論に至った。

どうせ孤独なんだから、他者になるべく翻弄されず、自分なりに。

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