詩が私に染み込む時──『詩の中の風景』読書感想文

ある詩が、自分の中にすうっと入ってくる時がある。
最大のなぐさめをそこに見出せるほどに、自分の心に沿ってくれることがある。またある時は、その詩にどうしても拒否感や嫌悪感を抱いてしまうこともある。

詩は作者の生き方や感情の「写し」だと思っているので、自然、自分の心がそこに近いときは近づけるし、遠いときは遠ざかる。
置かれたシチュエーションがまったく違っても、感情の波長がぴったりと合うことがあるのが不思議だと思う。
私は詩を、作品との距離感に自分の今の思想や感情を測り、感じながら楽しむものとしている。

折に触れ、身勝手な受け取り方で拾い読みしています。

一つの詩に二つの影(p.30)

私もとても自由に、身勝手に、詩を読んでいる。

そうやってたくさんの詩人の中から、詩集の中から、一編の詩を拾い、自分の内面とすり合わせてせいぜい妄想を楽しませてもらえるところがやっぱり詩の良さなのだと。
たくさんの詩が著者の人生録と共に紹介されたこの本を読んで、ますますそういう思いが強くなった。

私は詩人を多く知らないし、知っている詩も少ないけど、詩人にはその人の個性を投影した思想があり、詩集にはテーマや色がある。
救いのない状況の時はこれ。自分を鼓舞したい時はこれ。やさしく癒されたいならこれ。ノスタルジーに浸りたいなら……愛というのものをじんわり感じたいなら……

自分のあたまの中にお気に入りの詩の書棚をつくるのもすてきだなと思った。


今の私の印象に残った詩

「上野」 清岡卓行

身にはちきれんばかりの夢。若い頃。
目に見えるのは現実ばかり、でもそこにあるたしかな幸せ。家庭を持った中年の頃。
「創造のない家庭のみじめさ」「家庭のない創造のみじめさ」
この対比が、中年の心に刺さる。

「はつ鮎」 中 勘助

鮎釣りの季節に作者が思いを馳せるのは、障害を持って孤独に逝った晩年の兄。
当人への愛なのか、悔いなのか。他人と違って切っても切れない縁を持つ家族としての独特の距離感を感じさせる、絶対的な愛と一抹の切なさがそこにある。

「森の若葉」 金子光晴

祖父の初孫への愛。好き、とか愛してる、とかそういう言葉は一切ない。
でも、かわいくて好きで堪らない。そんな気持ちが溢れている。じゅわっと沸き起こるような子どもに対する愛しみをこちらにも思い起こさせてくれるような。

「虫けら」 大関松三郎

小学校の時に書いた詩を恩師がまとめた詩集『山芋』に入っている詩、だそうだ。なぜ本人の出版でないかというと、若くして海軍志願兵として出兵し戦死してしまったから。

おれは おまえたちの 大将でもないし 敵でもないが
おれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりする
おれは こまった
おれは くわをたてて考える
だが虫けらよ
やっぱりおれは土をたがやさんばならんでや
おまえらを けちらかしていかんばならんでや
なあ
虫けらや 虫けらや

『山芋』虫ケラ さいごの九行

生きるということの本質に迫る詩もそうだけど、松三郎の身の上に託して「戦時中にけちらされたかぞえきれない少年たち」と結ぶ著者の解説に感じ入ってしまった。

「夜明けに」 吉原幸子

この詩は、人生の厳しさを知る自立した女性の、過去の自分に向けるエールのように感じた。
さらに解説の中の、この詩句にも惹かれた。

おまへにあげよう
ゆるしておくれ こんなに痛いいのちを
それでも おまへにあげたい
いのちの すばらしい痛さを

『幼年連祷』あたらしいいのちに はじめの四行

どちらの詩も根底にあるものは同じだ。
厳しい人生に立ち向かうものへの、強く愛情に満ちたエール。


カバー写真:Image by Joe from Pixabay


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