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"なんとなくわかっているつもり"をきちんと言語化する重要性──『菊と刀』読書感想文

書籍データ

感想

これぞ比較文化人類学の骨頂。
第二次世界大戦後すぐの発行。現在との間に時代差はもちろん生じてはいるが、「日本人自身」では絶対に解明できない日本人像鮮やかに言語化されすぎて、目が覚める。ああ、そうかって言われたから腑落ちするところが本当に多い。

全体として見れば多くの特性を共有している、諸民族の間に認められる差異を研究することほど、人類学者にとって有益な事はない。

「来るもの」への対処

アメリカ人はその全生活を、たえず先方から挑みかかってくる世界に噛み合わせている──そしていつでもその挑戦を受けて立てるように準備している。ところが日本人は、あらかじめ計画され進路の定まった生活様式の中でしか安心を得ることができず、予見されなかった事柄に最大の脅威を感じる。

p.44

死は選び取れる最大の「名誉」

西欧の軍隊ならば、最善の努力を尽くした後に、衆寡敵せずとわかれば、敵軍に降伏する〜〜彼らは(世間的な)辱めを受けない。
ところが、日本人は〜〜名誉とはすなわち死に至るまで戦うことであった。〜〜けっして降伏してはならなかった。〜〜彼は(世間的に)名誉を失った。

p.55

第二次世界大戦時の日本人の行動原理は、アメリカにおいてここまで詳にされていた(そんな相手には絶対に勝てない)。

すべてのものをあるべき場所に置く

日本では世代と性別と年齢の特権はこのように大きい。しかしながらこれらの特権を行使する人びとは、専横な独裁者としてでなく、重大な責務を委託された人間として行動する。
〜〜そして彼の属する階級が上の階級であればあるだけ、家に対する責任の重さはますます重くなってくる。家の要求が個人の要求に先行する。

p.73

その後、現在にかけてこの特権は大きく変化した。
特権が無くなったから責任を失したのか、責任を放棄したから特権を失ったのか。今に特権だけが残っているパターンもあって、それが一番救われない。

恩と義理

日本の街の群衆が拱手傍観しているのは、、ただたんに自発性が欠けているからだけではない。それは官憲出なくて、私人が勝手に手出しをすれば、その行為を受ける人に恩を着せることになるということを認めているからである。

p.129

なるほど、と思う。そして、私たちがそのように振る舞うのは、逆に反発を食らって「恥」をかくのを避けるためとも言える。

「汚名」に対する極端な神経過敏

(アメリカの)実業家は、もし前にやらせてみた方針が思わしくなければ、新しい、別な指令を出せば良いと考える。彼は今まで自分のやってきたことは正しかったのだと言い張らなければ自尊心が保てないとは考えない。またもし自分の誤りを認めれば、辞職するか隠退するかしなければならないとも考えない。

p.188

これは日本人が捨てた方がいい考え方のトップ3に入ると思う。
誤りを察知した時点ですぐに認めて軌道修正する方がどう考えても生産的だし、逆になんで辞めるだけですべての責任を手放せることになっているのかも不思議。

われわれには日本人はどうしてあんなに、なんでもない言葉を恐ろしく深刻に受け取るのか理解しがたい。

p.195

アメリカ人のその考え方が欲しい。

練達を獲得する手段「禅」

輪廻説は日本的な思想の形ではない。涅槃の思想もまた、一般民衆に全然理解されていないばかりでなく、僧侶自らがそれに手を加えて、結局無くしてしまっている。どんな人間でも〜〜〜死ねば仏になる。
〜〜〜官能の楽しみを味わうことは生活の知恵の一部分となっている。唯一の条件は、官能は人生の重大な義務の前には犠牲にせねばならない、ということだけである。

p.291

すごく納得。
日本の仏教は、あくまで仏教をベースにして日本ナイズされた宗教なんだ。(別にそれが良いというわけでも悪いというわけでもなく事実として)

幼児時代の容認とその後の束縛

一つの顕著な連続性が子供の生活の前期と後期とを結びつけている。それは仲間に承認されるということに非常な重要性が置かれているということである。子供の心に植え付けられるのはこの点であって、絶対的な徳の標準ではない。

p.352

このように育つから、日本では絶対的な道徳よりも集団の価値観が振る舞いの「正しさ」を決める。

西欧人の目を驚かす日本人男子の行動の矛盾は、彼らの子供時代の訓育の不連続性生じるのであって〜〜〜(そこから生じる)性格の二元性は緊張を生じる。そしてその緊張に対して日本人は人によってそれぞれ異なった反応をするのであるが、実はそれは、なんでも自分の欲するままに振る舞い、まだそれが容認された幼児の頃の経験と、その後の生活の安穏を約束する束縛とを融和させるという、同一の重要問題に対して、各人がそれぞれ自分なりの解答をすることにほかならない。多くの人々がこの問題の解決に困難を感じる。

p.356

幼少期から成人への社会から求められる最適な態度の変化を受容できない人が多いのは今も昔も変わらないのか……。
現代では若干状況は変化しているけど、例えば初等教育で個を認められず、高等教育では個の発揮を求められ、企業に入ると和と個の融合を求めらるその差異に混乱する人は多い、よね。

日本人は自らに多大な要求を課する。世人から仲間はずれにされ、誹謗を受けるという大きな脅威を避けるために、彼らはせっかく味を覚えた個人的な楽しみを棄てなければならない。〜〜〜「善」か「悪」かではなくて、「期待どおりの人間」になるか「期待はずれの人間」になるか、ということを目安としてその進路を定め、世間一般の「期待」にそうために、自己の個人的要求を棄てる。〜〜〜しかしながら、このような緊張は個人には重い負担である。〜〜〜時にはこらえにこらえた鬱憤を爆発させ、極度に攻撃的な行動をする場合もある。

p.359

自分ごととしても、他人ごととしても、「わかる……」の一言。

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