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【自己紹介】適応障害になった自分

はじめまして まな です。
まずは自己紹介とこのブログを開設するに至った経緯を話します。
おそらく、世の中には自分のような人がいるのではないか、そう思っています。
その人に少しでも共感してもらえたら嬉しいと思ってブログを作ってみました。


自己紹介

名前:まな(30代男性)
職業:小学校教員
趣味:キャンプ、ロードバイク、ゴルフ、釣り動画編集、料理、Youtube  などなど

学生時代

〜生まれ→高校〜
両親が教員の家庭で何不自由なく大阪で生まれます。
小・中と公立学校で過ごし勉強もそこそこできました。
この頃から漠然と教師が将来の仕事という夢を持ちます。

だって、両親が教師ですもん。

家庭の会話は学校の話に溢れかえっていました。自称進学校の高校に入学、そこで初めて挫折を味わいます。
大学入試でまさかの10連敗。
頭を下げ、予備校へと通うこととなります。

〜浪人時代〜
親に少なくない予備校の学費を出してもらったのが申し訳なく、自分ルールを作り勉強に取り組みます。

○1日12時間机に向かう
○新たな友人を作らない

この1年は思い返しても地獄でした。
その努力?のおかげか、無事第一志望の某教育大学に合格します。

〜大学時代〜
一言で言うならアルバイト中心の生活でした。
通っていた予備校で進路指導のアルバイトをしながら色々な経験をしました。

もちろん、学業も努力をしました。
泊まり込みで研究室にこもり、パソコンと向かい合いました。
その合間に受けた(失礼)採用試験に見事合格、大阪府の教員になります。

受からなくても1年遊んでいいや、程度でしたが大学入試に勉強した内容がここでも活かされたのだと思います。

〜小学校教員へ〜
1校目に配属されてから1〜6年生の担任を経験しました。
ここで、色々な発表や研究授業を積極的に行います。

・教育センターでの研究発表
・近畿規模の研究大会での授業
・大学での学会発表 など

1年で平均3本は研究授業を行なっていました。新しいことにチャレンジしたい、そういう思いで行っていたのだと思います。
できることが楽しい!
認められることが嬉しい!仕事に燃えていました。

2・3校目
そこから転勤を重ね、しだいに学校や市での中心的役割を任されることとなります。
10年目らへんで「自分はある程度のことなら何でもできる」そう思うようになりました。
ですが、この考えがボキボキに折られることとなります。

〜適応障害〜
それは突然起こりました。
コンプライアンス的に具体的な話はできませんが話をしても通じない児童、不登校、保護者・・・今年は仕事がうまくいかず、その対応に追われ日付が変わるまで職場に残ることが何ヶ月も続きました。
でも、一向に改善されません。
そして、次第に変化する自分の体。

気がつけば朝、動悸が止まらなくなりました。
手が震えました。
食欲が無くなり、朝のパンだけで1日を過ごしました。
そしてある日、突然教壇に立たなくなりました。
管理職に泣きつき、とりあえず休みをもらいました。
心療内科を勧められ、出た診断名は
「適応障害」
そして今に至り、休んでいます。


現在

仕事に行かなくなった私は専業主夫として過ごします。
家で妻を見送り、一人で過ごす日々で思うことがありました。

それは、

世界はこんなにも広いんだ

ということ。
公園で散歩をしているおじいちゃん。
電車で音楽を聴いているお兄さん。(自分より年下だが。)
定食屋さんで並ぶサラリーマン。
たくさんな人生がそこに広がっていました。
それを見て何もこの仕事だけではない。
そう思いました。
この自宅にいる時間。
せっかくの時間なのでこれからの自分の人生を一度考えてみよう。
休んで2ヶ月目でやっとそう思えるようになりました。
そんなある日、知人と転職の話になり、何人もの人が転職をしている事実を知りました。
その人たちはすごいと思います。
行動したのだから。

「PDCAサイクル?Pが多すぎるねん!まずはDしてみーや笑」

という話のオチもあり
自分も行動せねばならないとブログを初めたという次第です。

このつぶやきがどこかの誰か辛い思いをしている人の心に届けばいいな。


長文お読みいただき、ありがとうございました!

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