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クソキモ自分史③ 有為の奥山 今日越えて

8 やけどな、出て行くべきや


「こんな日々が、続きますように」
 いつかは終わりを迎えることが分かっているからこその願いでした。
 大学1年の時に初めて訪れた夜の街。その外れにあるラウンジ音色で働くための面接の直前のことでした。私は、私をここまで導いてくれた「道」の存在に気付きました。
 この道はこの先どこに繋がるのか。そんなことを考えながら歩いてきた軌跡を振り返ると、稲沢さんが、都さんが、そしてママが、私のすぐ傍らでこちらを見て微笑むのです。なんと心強いことか。なんと愉しいことか。この不思議な道のりを「思い出」にしたくないと、過去にしてしまいたくないと思うことは、私にとってごく自然な思考でした。そして、大学の卒業が近付けば近付くほどその思いは強くなるのでした。
 私は近い将来この街を去ることが確定していました。言い換えると、街を去らなければならないと錯覚していました。学生という身分にあり、この先に続く道は随意的な選択によりどの方角にも伸ばすことができるはずでした。当然金沢に残るという「道」も選択によってはあったはずです。しかしながら、どれだけ考えを巡らせども、私の道は金沢ではないどこかに伸びていくことがさも予定調和的に決まっているようでした。
 つまり私は、「私の道が金沢に残らないことが、自分の意志決定が作用しないレベルで確定している」と自らに言い聞かせ続け、「金沢に残ってこの生活を続けたいのに、私はこの街を出て行かなければならない」と、自らの認識を錯誤させることに成功したのです。これは「ラウンジ音色での日々がこの先も存在し続けたら良いのに」という己を驚かせた思考の発見が大きな影響を及ぼしたことは言うまでもなく、「今を生きる」を体現出来ている結果の表出でした。
 そして、その思考こそが、過去を有難がる私の醜い習性の予備動作であることと、愉しい今を過去にするための下拵えであることを自覚し、「またか」と血が滲むほど唇を嚙むのでした。

「堀君、堀君や」
 パーラメントを手に持ったまま、呼びかけに反応するのに時間を要しました。
「どうしたんけ、ぼんやりして」
 馴染みの煙草屋の店主が心配そうに私を眺めていました。
 片町の中央に位置するこの煙草屋には、店にストックする煙草を仕入れるためにほぼ毎日出入りしていました。ボーイの仕事を始めてから最初に街の人に顔を覚えてもらったのはこの煙草屋の店主でした。
「すみません。ぼーっとしちゃって」
 私は下手糞に誤魔化して、毎日買うママのパーラメントを店主に手渡しました。
「うん、ママの分ね。堀君いつも頑張っとるね。はいどうぞ」
 店主は、煙草を袋に詰めて私に手渡そうとしました。
「ありがとうございます……ん?」
 店主は、中々煙草が入った袋を離そうとしませんでした。袋がガサと音を立てました。
 困惑して顔を上げると、店主は真顔で私の目を真っ直ぐ見つめていました。
「堀君。煙草は喫むか」
「え、ええ、吸いますけど」
「銘柄は」
「ケントです。5mmの」
 店主はようやく袋を手放しました。そして、レジの下から私が吸うケントのカートンを出して私に持たせました。
「持っていきまっし。これから本数増えるやろ」
「いやいや……悪いですって」
 「それから、待っとって」と店主はレジ横のガラスケースから箱を取り出し、私に手渡しました。手に持つと重みのある箱には、CROWNと刻印されたガスライターが入っていました。
「良い煙草を喫むには、百円ライターやと寂しいやろ。だいぶ早いけど卒業祝いや」
「どうして……」
「良くないことを考えとるようやね」
 店主は優しく私に笑いかけました。
「堀君な、俺も長いこと店をやっとるからな、何人も学生のボーイを見てきたんや。ほとんどの子は卒業が近付くと『やっと辞めれる』と嬉しそうにしとるが、たまに堀君みたいな顔をする子がおるんや。やからそういう子には卒業祝いを渡すようにしとってな。俺なりの礼儀ねん」
「堀君、この街を好きになってくれてありがとう。やけどな、出て行くべきや。地元でご両親も待っとるんやろ。実際、片町も人が減って来とるしな」
 店主は真っ直ぐ私を見て語り終えしました。
 私は、店主が伝えたかったことの半分も理解しないまま、深々と頭を下げました。頂いた好意をそのまま拝受することが最大の礼儀だと思ったからです。
 音色に戻り、仕入れた煙草が入ったビニール袋を雑にカウンターに置きました。開店前の準備時間、誰も出勤していないフロアで、頂いたガスライターを手に取って眺めました。
 光沢のある黒で包まれた重量のあるボディーには、王冠が刻印されていました。右肩を押し込むと、ライターはカチリと音を立て、オレンジ色の火を噴きました。
 私はケントを咥え、その火を灯しました。
「やけどな、出て行くべきや」
 店主が言った言葉が頭の中で何度も繰り返されていました。
 私は、誰もいないフロアを眺めて自嘲的に煙を吐きました。

9 変わろう。変わっていかんと


 大学4年の秋を迎えた頃、エースであった都さんが突然辞めることになりました。
 当然ながら女の子達や我々ボーイ達も大いに驚き、全員が詳細を知らされなかったため、それぞれが口々に「大手からの引き抜きか」「それはまた卑劣な」「あれだけ稼いだのだから、店を立ち上げるのでは」「それではママへの仁義が」「人が減ってきた片町に見切りをつけたのでは」などと勝手な噂をしていました。
 店を辞めることを知ったお客様からも「ついに店やるんか!開店したら連絡くれっけ」などと囃し立てられると、立ち回りの上手い彼女には珍しく苦笑いだけで反応を済まし、なんとも言えない空気になってしまうのでした。
 そのような反応を繰り返す都さんを見て「彼女に詳細を聞くことは無粋だ」と皆が認識を合わせ、さも彼女がこの先も働き続けるかのように全員が立ち振る舞いました。
 一番弟子であるはずの私も都さんに話を聞くことができないまま、日常は滞ることなく、着々と都さんの最終出勤日に向けて歩みを進めていきました。
 都さんの最終日を翌日に控えた閉店間際のバックヤードでのことでした。
「堀君!私次でラストやから一緒に飲みに行かんなんよ!最後は弟子と行くって決めてるんやからね!いつもみたいに逃げるなよ!1時にしっかり上がれよ!」これからアフターだというのに、酩酊状態の都さんが私の胸元を人差し指でずいずいと押しながら言いました。

 次の日の1時過ぎ、私は都さんが指定したバーに向かいました。最初に都さんに連れて行ってもらったバーです。
 店に着くと、都さんが奥のボックス席に座っていました。こちらに気が付いた都さんは「堀君こっち」と私を笑顔で手招きしました。
 テーブルの上には飲みかけのディタモーニと汗をかいた梅酒が置いてありました。
「いや~本当にお疲れ、私」
 都さんはヒールを脱いで、ボックス席に足を上げていました。ピアニッシモに火をつけた彼女は、実にリラックスしているように見えました。
「長い間お疲れ様でした。そしてお世話になりました。育てていただいて」
「ほんとやわ。堀君は私が育てたようなもんやよ。なんて言ったって弟子やからね」
 私達は思い出話に花を咲かせました。私が入りたての時女の子達に相手にされなかった話。常連客同士が喧嘩を始めてママと三人で止めに入った話。後輩のボーイが飛んで私が2週間連続で出勤した話。女の子が酔ってママに失礼なことを言って都さんがヒヤヒヤした話。
 不思議な感覚でした。先程まで二人とも同じ職場の同僚として働いていたのに、今はもうそれが過去の出来事になっていました。
 3杯目の梅酒が空になった頃、私はついに都さんが辞めることになって理由を聞くことにしました。無粋だと分かっていてもどうしても知りたくなったのです。
「やっと聞いてくれた。堀君遅いよ。キミにはしっかり説明したかったんやけど、なんだか恥ずかしくて。私、結婚するんやよ」
「え!マジですか」
「そ!人の妻になるには水商売なんかやっとったらダメでしょ。夫はもう知っとるんやけどね。なんならこのバーのオーナーやし」
「ちょっと急に情報量が増えすぎて整理が……」
 都さんはカウンターでグラスを磨いていたバーテンダーを呼びました。
「堀君だね。妻から話はよく聞いています。大変お世話になりました」
 都さんは、無精髭が似合う背の高い旦那様に巻き付き、満面の笑みで私に向かってピースしました。
 一人の女性としての幸せを手にし、この先の道を旦那様と二人で歩んでいこうとする都さんには、清らかな光が差し込んでいるように見えました。
 彼女は水商売を上がって、これから普通の女性としての幸せを享受し、また今までと違った人生を味わい、楽しんでいくのでしょう。そのためには穢れを落としておく必要があります。都さんはお客様や女の子達、他のボーイ達には詳細を伝えず立ち去ることを選びました。ママには何かしら彼女なりの仁義を通したのだと思います。後は、私でした。最後にこの私を選んでくれ、加えて詳細を明かしてくれた計らいを思うと目頭が熱くなり、そしてこの後彼女がどうするつもりなのかを理解した私は、ひどく寂しい思いをしました。

 旦那様に挨拶をしてバーを出た私に、都さんは「スクランブルまで送っていくよ」と声を掛けました。
「本当にありがとね。堀君」
 都さんの大きな瞳は、少しばかり潤んでいるように見えました。
「また飲みに行こうと言いたいところやけど……もう会わない」
「都さん、やっぱり……」
「水商売を上がるってそういうことねん。街を去るってそういうことねん。夫の店があるから街でばったり会うかもしれんけど、私は知らんぷりする。堀君、これでさよならやよ。本当にありがとう。絶対に忘れない」
 都さんの瞳から、涙が零れてきました。どれだけ涙が零れても、それを拭うことなく都さんは前を向いたまま話しました。
「私、ずっと見とったんやよ。堀君がお店を守ってくれとるの。堀君がいないともうお店回らんやん。稲沢君が辞めてから本当に逞しくなった。ママもずっとそう言っとったよ」
「堀君にとってお店の存在が大きくなっていくのも見てて分かった。悩むようになってしまったんやもん。私が飲みに誘ったのはちょっと不安やったから。堀君潰れんかなって」
「堀君賢いから見とって分かると思うけど、片町人減ってきとるやろ?もう寂れていく一方やと思う。お店もそんな長くない気がする。私は」
 あの時ママによる「イベント」後に私自身の感情に気付いてから、私は街が自分の家族になったような、味方になってくれたような、そのような不思議な感覚を覚えていました。
 そして都さんの優しい思いに触れた今、その感覚はより一層強くなっていました。
 この家族のように暖かい片町から、都さんは離れようとしている。そう思うと、彼女の新たな門出を祝う気持ちが薄れ、寂寞の念が強くなっていく自分を強く嫌悪しました。
「私達はずっとここに居たらダメやと思う。堀君、変わろう。変わっていかんと」
 横を歩く都さんが足を止めたので、私は振り返りました。
「堀君、ありがとう。お元気で」
 都さんは涙で濡れた大きな左目をパチリと一度閉じました。
 私は深々と頭を下げ、前を向き直り歩き始めました。もう振り返ることはあるまい。夜空を見上げました。
 それは涙を堪えるためではなく、私達を見下ろす日栄の大きなネオンサインを仰ぎ見るためでした。その眩くも優しい光は、都さんと私の道が袂を分かつ様を、暖かく受け入れ、じっと見守ってくれているのだろうと思ったからです。
 巨大な看板は、私が初めて片町を訪れた時と変わらず燦然と赤い光を放っていました。ネオンサインの隅の電飾が切れ、端が陰ってしまっていることを除いて。

10 卒業


「来年北陸新幹線が金沢まで通るやろ。そしたら片町は終わりや。行政も金沢駅の方を開発しとるからな」
 都さんが辞めた後、主力の女の子達も相次いで抜けていき、ボーイである私がお客様の相手をするという異常事態が続いていました。
「金沢は車社会やろ。昔は駅の方なんか寂れとってん。飲みに行くと言ったら片町やったんや」
 私はボックス席で唾を飛ばしながら語るお客様の傍らで片膝をつき、話を聞きました。
「私は片町がどうなってもここで店を続けるよ。片町が好きやから」
 横に座るママが美しい笑顔で大見得を切ると、お客様は「それでこそママや」と大変盛り上がりました。ママから「下がれ」と指示が出ましたので、私はバックヤードに戻り、溜まっていたグラスを片付けにかかりました。
 確かに私がこの店でアルバイトを始めた数年前と比べ、片町から人は減ってきているようでした。単純に私が街の風景に慣れたものだと思い込んでいましたが、皆の話を聞くと確実に人出は減ってきているようでした。そして、私が街に出入りしていた数年間は、何の因果かとりわけ人出の減少が著しい時期であったというのです。
 要らぬことを考えながらグラスを洗っていると、ママがバックヤードに入ってきました。
 いつものように私に背を向けてパーラメントを吸いながら、ママは言いました。
「盛者必衰と言うけれど、それが今ではないと私は信じてるわよ」
 私は「はい」としか応えることが出来ませんでした。

 「ずっと続けばいいのに」と願ったラウンジ音色での生活も、終わりの時が近付いてきました。あれ程嫌で仕方なかったアルバイトも、いざ終わりが近付くと恋しくなるから不思議なものです。私の心の底では、既にこの生活が「過去の出来事」として消化され始め、思い出として美化され始めていたのです。私は自分自身に改めて嫌気が差しました。
「明日は少し話をしたいから残ってくれる?」
 ママは言いました。明日は2014年3月7日金曜日。私の最後の出勤日です。
 最後の出勤日は滞りなく終わりました。煙草屋の店主に挨拶をし、シンクやグラスなどを改めて磨き上げ、ママや女の子に「この子今日がラストなの」などと紹介されお小遣いを頂き、ボトルの整理を行いながら、もう二度と帰ってこないラウンジ音色のボーイとしての時間を自分なりに味わいました。
 深夜1時に最後のお客様が帰られた後、ママは誰もいなくなった店内を見渡して、小さく溜息をついた後カウンターに座りました。
「堀君、おいでよ」
 しばらくぼうっと虚空を眺めた後、パーラメントに火を付けてようやっと私に話しかけました。
「今日は貴方と対等に話したいわ。ほら」
 ママはカウンターにあったお客様のシーバスリーガルで水割りを作って私に渡しました。
「もう少し広い店にしたかったんやけど、バックヤードがあんなに狭いもんやからお客様のボトルを置く場所が無くなってしまってん。お客様のボトル置かずに飲んだ量を台帳にメモしとるやろ?定規で測って。やからこんなこともできちゃう。後で足しとけばいいから」
 ママは笑いながら言いました。
「最初は可哀そうやと思って見とった。貴方のこと。急にこんなとこ連れてこられて。あんな稲沢君みたいな巨人に毎日怒られて。稲沢君が辞める前やったかな。貴方覚えてないかもしれないけど、どんなタイプか測るために強めに注意したらそれがハマったみたいで急に働き始めたでしょ。あれは笑えたわよ」
 ママはパーラメントの煙を吐きながらにへらと笑いました。的確に私という人間を攻略されたと思い込んでいたのは誤りだったようです。
「でも、それからは本当に助かってばかりよ。もう貴方がいないとお店回んないもの。本当にありがとう。あの時原付を餌にして良かったわよ」
 ママから面と向かって感謝を伝えられたことが嬉しくなり、目に涙がじわじわと溜まっていくのが分かりました。それを誤魔化すため、苦手なウイスキーをグイと飲みました。
「堀君、人が老衰で死んでいくところって見たことある?」
「いえ、ありません」
「ご飯食べられんくなってしまうんやって。そうなると点滴からしか栄養を摂れんのやって。点滴いつまでもしとるわけにはいかんやろ?やから点滴を外すと、脱水になって徐々に弱っていって、そのまま亡くなっていくんやって。ゆっくり弱っていって、徐々に亡くなっていくんやって」
「片町も同じ状況ねん。ゆっくり、ゆっくり弱っていって、やがてこの街は呼吸を止める。それを見届けなさい。貴方はこれからの人間やから、一度愛した街が弱っていく様をしっかり見ておきなさい。今は分からんかもしれんけど、いつか『見ろ』と言った意味が分かる日が来るわよ」
 私は何も答えることが出来ませんでした。
 あれだけ「認められたい」と追いかけたママの背中は意外な程近くまで来ていて、手を伸ばせば触れることすら出来てしまいそうだったからです。
「ママ。音色は、この店は、片町のためにも続けるべきだと思います。存在し続けないといけないと思います」
 私のためにも存在し続けて欲しい。当然ながら自分勝手なその願いは口に出しませんでした。
「堀君。世の中には変わっていった方が良いものと変わらない方が美しいものがあるの。この店はどっちだろうね。私には分からない」
 私の道に大きな影響を与えた音色での生活の最終日は、楽しく終えることができるものだと思い込んでいました。しかしながら、蓋を開けてみるとどこか物寂しく、どこか空虚な、そんな夜でした。

 しばらく話し込んだあと、ママは言いました。
「あんまり引き留めてもいけないから、最後に一言だけ言わせて頂戴。私の本心」
 ママは真っ直ぐに私を見据えました。
「寂しい。行かないで欲しい」
 私は目を丸くしました。ママは言い終えると、すぐに横を向き、私から目を逸らしてぼやきました。
「私があと20歳若かったら貴方に付いていくわよ」
 そして、ママは目を逸らしたまま、封筒を私に差し出しました。
「今までありがとう。数年間私に付いてきてくれたお礼よ」

 これ以上話をすると涙が出るからという理由で、私は店から追い出されました。
 ウォルナットの重厚な扉が閉まった後、私はしばらくの間頭を下げ続けました。どうか音色がこの先も存在し続けて、私が次この扉を開くときも変わらずママが迎え入れてくれますように。私の心からの願いでした。

 帰りのタクシーでママから頂いた封筒を開けると、中には「卒業祝」と書かれた現金が10万円と便箋が1枚入っていました。
 便箋には「貴方を思い出にしたいから安易にはお店に来ないように。でも人生の転機には来るように」と書かれていました。
 私は震える声で「分かりました」と呟きました。
 窓の外を見ました。中々焦点が合わず、見慣れた片町の景色がぼやけて後ろに流れていきました。それは涙のせいであることに気付くのに時間はかかりませんでした。



(続)

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