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散文的な砂、アップルパイ、読書感想文あるいはレイアップシュート

 少年野球の練習が終わり、母を待っていた。コンクリートの隅の吹き溜まりに散らばる砂を見ながら。タイヤの摩擦で削れたコンクリートなのかとても粒が細かく、雨水に乗って最後まで流されて、大きな国道の端にある排水溝付近によく集まっている。黒くて、天気の続いた日には灰色に乾涸びているあの砂だ。想像できただろうか? 畑の土で泥団子の土台を作り、その上から公園の砂場の砂でがっちり握って、最後にその"コンクリートの砂"をまぶすと非常に硬い泥団子が作れる。だから僕はその砂が好きだった。そうか、野球の練習終わりにいつも母を待っているこの場所にもあったのか。貴重な発見だった。
 その砂のこともだが、泥団子を作ることがとても好きだった。泥団子といってもあらゆる方向性がある。布で磨いてピカピカに光らせることには興味はなかった。というか磨くとピカピカに光る泥団子を作れることはもっと歳を取ってから知ったので、作り方も存在も知らなかったし周りに作っている友達もいなかった。僕が重視するのは出来るだけ丸いことと、その硬さだった。思い切り握り潰そうとしてもヒビひとつ入らない硬さに何よりも浪漫と完成を感じていた。あんなに軟らかかった土とバラバラの粒だった砂がどうしてこんなにひとつの球体として存在してしまうのか不思議でしょうがなかった。
 泥団子は当時住んでいた社宅にあったトランクルームの中で、スノータイヤや父の釣りやキャンプ道具と一緒に寝かせることにしていた。きっと扉を閉めると暗くて風通しが悪くて少し蒸し暑くなってしまうそのスペースで、徐々に水分が抜けていくのを想像する。それは僕が授業でわからない問題を当てられて嫌な汗を流している時も、練習の最後に一番嫌いなベースランニングをさせられている時も、泥団子からは水分が蒸発していて段々と硬くなって完成形に近づいていく。自分の日常から切り離された空間で、自分の作った泥団子が自分の望んだたまらなく面白く可笑しい状態になっていく。それは生活を少し楽にさせた。小学校中学年の生活を快適に過ごすちょっとしたテクニックでもあった。だから完成してしまった泥団子は手持ち無沙汰に右手で持ったり左手で持ったり、宙に放り投げてみたりした後、思い切りコンクリートに叩きつけて粉々に割ってしまうことが多かった。そして泥団子は見る影もなく無惨に割れて砂に戻った。

 午後六時過ぎ、いつも母は自転車で迎えに来る。昔は前にも後ろにも子どもが乗れるシートを取り付けて妹と三人で乗っていたこともあったけれど、小学三年生になった今では、僕を後ろの荷台のシートに乗せるので手一杯だったと思う。母はけんけん乗りは出来ないし、漕ぎ方も体を揺らしながらいかにも大変そうに漕ぐので遠くからでもすぐにわかった。
 その日は水曜日だった。僕にとって水曜日の自転車に揺られる帰り道は格別だった。水曜日は必ず母が野菜の名前を冠した地元のスーパーで、アップルパイを買ってきてくれる。そう大層なアップルパイではないが、水曜日にしか売っていないのだ。スーパーの一角にある何の変哲もないパン屋の、揚げすぎたカレーパンとかテカテカに光ったウインナーパンとか決して素材や無添加へのこだわりがあるわけではない庶民のラインナップの中にそれはあった。"一番人気!"や"店長おすすめ"のPOP中だって貼られていない。林檎もごろごろと大きくて食べ応えがあったり、鼻から抜けるシナモンの香りが特別良くてパイ生地もサクサクしていたりだとか他のアップルパイとは一線を画しているものではない。ただ、薄く卵液が塗られた縦長のパイの中に入っている賽の目状に切られた林檎の歯ごたえとフィリングの瀞みと分量が絶妙で、まるで信じられない食感のパイ生地や糖度がとても高い果実としての林檎、また煮られた林檎の上品なシロップを食べていると思ってしまうような特長や特別感がない代わりに、きちんと「自分は"アップルパイ"を食べている」と思わせてくれる、ある意味完成されたアップルパイだった。
 それを齧りながら、今日学校がどうだったとか野球の練習でノックを上手く捕れたとか、ぽつりぽつりと話す。自転車はそんなにスピードが出ているわけではないのに、焦点が目の前にあるパイに合っているせいで通り過ぎる家々と車のライトが流線形になって、視界の背景で流れるように過ぎ去っていく。帰り道は夕食どきだった。まだあの頃は焼いた魚だったり、カレーや肉じゃがを煮る匂いがそこら中の家からしていた。母は住宅街の生活道路に入ると、道の真ん中にある消雪装置に沿って自転車を走らせる。それが帰る家を指す矢印の上を走っているみたいだと思った。
 アップルパイはあっという間に無くなって、家についてから名残を惜しみつつも、パイの欠片でカサカサと音が鳴る紙袋を蓋の壊れた黒いプラスチックのゴミ箱に入れ、次の週の水曜日も絶対買ってきてねと母にねだるのだった。

 夏休みの読書感想文を手直ししてコンクールに出そう、と廊下ですれ違いざまに担任に呼び止められた。クラス全員が書いたはずの読書感想文で何で自分だけがと思ったが、引き受けた。一緒にいた友達が僕の肩を小突いた。確か取り上げた本は小学校で配られた本の定期購読で買ったもので、野球のことが書いてあったから選んだ本だった。ニューヨーク・ヤンキースにかつていた片腕のエース、アボット投手と同じく、幼い頃片腕を失った高校球児の挑戦について書かれていて、自分の野球を通した体験と絡めて感想文をつくったと思う。
 その日の放課後、先生と二人きりの教室で教壇のすぐ前の机に向かい合わせになって座る。鉛筆を持った先生が僕の原稿を手で持ちながら線を引いたり矢印をつけたりして、じっくりと読み進めていく。鉛筆が原稿用紙をなぞる音とグラウンドの野球の練習の声が休み休み交互に聞こえた。クラスの中では聞き分けの良い優等生と認識されていると思っていたので邪険には扱われないとは思っていたが、担任と二人きりとなる状況に緊張した。この前言葉遣いで怒られたな、とか、当番の時に黒板を消し忘れたな、とか最近の悪いことばかりが思い浮かんだ。
 終盤、「このときはどう思った?」「この文章はどういう気持ちで書いたのかな?」と改めて言われても、その時の自分が書きたいから書いたもので、今の自分に聞かれても何と説明していいか言葉が思いつかず、きゅっと喉が絞まり、涙がじわりと溢れて泣いてしまった。驚いた先生にすぐに「大丈夫です」と説明した。しゃっくりも鼻水も出ずに、理由もわからず涙だけが出た。自分の涙が自分を感傷的にさせ、窓に目をやる。夕暮れ時だった。太陽の光はチョークの粉に似ていて、教室に差し込んでくる西日は粒子となって、生活の時間に作ったクラスの係や当番が書いてある掲示物や教室の後ろに並べて張ってある皆の習字にサラサラと当たって流れ込んだ。ランドセルを入れるロッカーにも教室の板張りの床にもそれは降り注いで積もっていく。指で拭った涙の一粒が床に落ち、粒子を含んで丸まって弾けてるように転がった。早く野球の練習に行かないと監督に何か言われるだろうかと心配し、それが気掛かりだった。
 最近読んだ作家の宇佐美りんが小説を書き始めたときのことを振り返る寄稿の中で、小学校の放課後、市の文集に出す原稿を担任の先生と一緒に手直ししているシーンが書かれていた。自分の思い出とはずいぶん違っていて驚いた。そういえば副賞で貰った図書券は漫画に消えいったことにも、つくづく自分は庶民だなと情けなくなった。

 土日は大抵野球の試合があり、朝早いことが多かった。まだ民放は通販番組しかやっていなくて、仕方がないのでNHKでお坊さんが説法をしている番組を見ながらトーストを齧った。母は揚げ物をしている。何故かお弁当はシシャモとおにぎりに指定されている意味のわからない、くだらないスポーツ少年団の野球部だったので、せめてもの反抗としてシシャモをフライにして持たせてくれていた。
 少年野球チームは地域でも名の知れた強豪で、ダブルヘッダーで余程どうでもいい試合以外は試合にあまり出たことがなかった。「来週、ピッチャーで投げてみるか」と監督に言われたその週に家族で白馬に旅行に行くことになり試合を休んだら、それ以来使われることが極端に減っていた。
 それでも健気に練習や試合に行く息子を母はどう思っていたかは知らないが、そのNHKの説法を聞いていた朝、小学校のグラウンドまで車で送ってもらった時だった。まだ集合時刻まで時間があり、車の助手席でシートにもたれていると母は珍しく自分の中学時代のことを話し出した。

「お母さんも中学の頃バスケ部に入ってね、バスケなんて全然したことなかったけど。練習でも全然シュートなんか入ったことないくらい」
「うん」
「でもある日の試合で偶然、たまたまゴール下でパスもらってレイアップでシュートしたことがあって。それがまた練習でも入らないのに、その時は入っちゃったんだよね。ほんとに一回だけそれっきり。なんかそういうこと、お母さんにもあったな〜」
「うん」

 頭の中で中学の頃の母と試合が再生される。パスをもらった時の緊張感、バッシュの母指球に入れた力み、レイアップの体の浮く感覚、手のひらから離れたボールの放物線、揺れるネットとシュートが入る乾いた音、チームメートの歓声、ハイタッチ、一連の流れの連想で指先がじんと熱っぽくなって、手をグーとパーに握ったり広げたりした。
 その話に関しては「母の頑張りを神様も見てくれていてそれが実ったんだ。きっと頑張っているとそういうこともあるんだ」とかいう道徳的な感じの良い感想ではない。どちらかというと「人生ってたまたま良いことがあったり、ちょっとした奇跡的なことが起こったりすることってあるよな。本人の努力の有無はどうであれ」とかねてからあった楽観思想に輪をかけるような感想で終わった。
 この間実家に帰省した時に、もう使わなくなった直火式のエスプレッソメーカーを持って帰ってきた。最近それで朝エスプレッソを飲んでいるのだけれど、そのエスプレッソメーカーの蓋がレイアップシュートみたいに下から上にフワッとした軌道で開くので、なんだかそのことを思い出してしまった。朝に「今日シュート入らないかな」と思いながら飲む一杯はなかにすがすがしいし、貴重なのかもしれない。あと一口というところでカップを揺らして底に溜まっている角の取れた砂糖の粒を溶かす。最後にいつも甘いところが、エスプレッソの良いところだ。


 なんの取り留めもない。どこかざらついた、散文的な砂、アップルパイ、読書感想文あるいはレイアップシュート。


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