論95.強化鍛錬とバランス調整について

〇トレーニングの意味
 
トレーニングのメニュというのは、さまざまな目的によって使われるものです。
たとえば、せりふや歌唱の上達に関して、今の実力だけでは何かが足りない、もっと大きく強く柔軟に使えるようにしなくてはならない、などといった目的のために使うものです。
 
特別なトレーニングをしなくても、高いレベルまで到達した人もいれば、本番さながらのせりふや歌唱の練習だけで、他に何もせずに上達した人もいます。
むしろ、業界には、そういう人の方が多いでしょう。
昔は、ヴォイストレーニングなどなかったのです。邦楽やエスニックの歌には、今もない方が普通です。
 
つまり、その人の心身の状態が、せりふや歌唱をすることに理想的であれば、きっと、そういうふうになるはずです。
日常の中で不自由しないくらいで話をすることは、多くの人ができます。歌についても、習わなくとも、よく聞いた歌は、大体、歌えるものでしょう。
それでも、そこに優劣やより魅力的、表現力があるかというような基準をつけ出すと、かなりのばらつきが見られるはずです。
 
上達をめざす人は、うまくなろうと、もっとよくなろうと考えます。
とはいえ、この判断も、かなり曖昧です。まわりの人のレベルによっても相当に違ってきます。
上達の必要性を感じる人もいれば、感じない人もいるでしょう。
同じレベルでもよいと思う人もいれば、全然よくないと思う人もいるはずです。
ともかくも、そこで上達に必要なものが、トレーニングということになります。
 
逆に考えると、トレーニングとまではいわずとも、日常的に声をまったく使っていなければ、せりふも歌もみるみる衰えていくはずです。
つまり、日常の中のレベルで、日常の会話をしているということは、最低限のトレーニングを行っていることになるわけです。
 
〇総合的、根本的に捉える
 
ここで述べたいことは、どんなメニュがよいとか悪いとか、メニュの使い方の正しいとか間違いとか、いろんなことがいわれることについて、そのベースにある根本的かつ総合的な考え方です。
 
もちろん、どのトレーニング方法がよいとか、どのトレーナーがいいとかは、誰に対して、どのレベルで、どの目的なら、などによるものでしょう。
一概にいえませんし、これを細分化していくとキリがありません。
ですから、総合的な考え方として、捉えておこうということです。
 
例えば、運動でも、心身の不調のときに、それをどのように判断するかというのは難しいものです。少し運動すればよくなるという場合もあれば、その運動がより悪くするということもあるでしょう。
風邪を引いたかどうかと迷うときにも、いつもと同じようにしてよいのか、休めた方がよいのかという判断が、本当のところ難しいわけです。
日常で、そうした判断を迫られる事態になることはよくあることです。
 
腰痛などでも、じっとしておくとよくないとか、少しでも動かしたほうがいいとか、動かしすぎたらよくないとか、いろいろと、いわれるようになりました。
まわりの意見も自分の考えも、それぞれに大きく異なることが多いと思います。
最終的には、自分の身体の声を素直に聞くことになります。
そのこと1つをとっても、とても難しいことだと思います。
 
〇時間、量から質へ
 
ヴォイストレーニングも、こうしたことと同じような局面に当たることが多いわけです。
私自身の考えでは、できるだけ日常の中で、声を注意して使っていくようにして、しぜんに習得していくのが1番だと思っています。毎日20分から30分、長くても1時間ほどで、無理のない範囲で続けて、上達していくということです。
 
声を出すだけでせりふや歌は上達しませんから、耳を鍛えていく、判断基準そのものをつけていくことも必要です。
しかし、ここでは、それをいっときはずして、まずは発声の能力向上だけを取り上げてみたいと思います。
 
もちろん、発声の能力だけを捉えることでは、上達に限りがあります。なんとなく自然にうまくなったような人は、必ず、量として多く繰り返しているだけでなく、耳の能力も優れていた、あるいは優れるようになったと思われるからです。この点は、後でもう一度、触れます。
 
たくさんの声出しをしたとか、大きな声を出したとか、長く声を出したということが、そのまま優れていくことに結びつくとは限りません。
それでも、スポーツの練習と同じように、量は質に転化するという意味で、最低限必要な条件ではあります。全く何もしていないのに、質がよくなるわけはないからです。
同じ量を行なっても、その量に比例して、上達するわけではないことだけご留意ください。
 
〇トレーニングの目的の特殊性
 
同じトレーニングでも、その効果には、かなりの個人差が生じてきます。
そこがトレーニングの問題でもあるのです。
トレーニングというのは、効率を重視するわけです。つまり、できるだけ少なく早く上達するのが目的になることが多いわけです。
 
特にスポーツの場合は、試合という期限が決められているから、そこまでに上達しなければなりません。何十年もかかって高いレベルに達するというのは、大概は、目的になりません。
 
しかし、芸術や芸能、私たちの扱うところにおいては、むしろ、そのほうが大切なのです。現実には、そういった評価を求めるのは、かなり難しいことです。
生涯通じてどのぐらいのレベルに達することができたか、それをトレーニングで問うにはあまりに時間がかかりすぎるからです。検証もし難いからです。
 
ですから、トレーニングの目的というのは、はっきりいうと、2つになりがちです。
より早くということ、そして、より高くということです。
 
ほかにも、より楽にとか、より費用がかからないようにとか、どこでもいつでもできるようにとか、さまざまな副次的な目的もあります。しかし、これらは、目的というよりも手段かもしれません。
 
何よりも大切なのは、その当人に当てはまるようにということです。
 
日常的なところで、10%から20%くらいの肉体的負荷をかけるようにして、力をつけていくというのが、無理のないことでは、理想的なことです。
ただし、この場合、時間がかかります。
20歳までに、それなりに声がある人、せりふがいえたり、歌が歌えたりする人は、その20年間に、こうしたことを他の人よりも何%増かで重ねてきた人が多いわけです。
 
そこでは質も問われています。大体がまねごとから入っていますから、そういったことを体験するなかで、自分なりにうまく自分が伸びる見本を選んできたといえるかもしれません。
特に歌の場合は、その傾向が強いです。
 
〇経験不足の人の場合
 
ここでも、逆のことを考えてもらうとわかりやすいと思います。ほとんど大きな声を出さないできた人、人前で話さなかったり、歌などを歌ったことがない、カラオケも避けてきた人は、とてもハンディキャップがあるわけです。
 
そういう人が、プロをめざしたいとなったときに、もし役者や歌手になるという夢を描いたときに絶望的かというと、少なくともスポーツ選手ほど不可能ということはありません。
なぜなら年齢制限がある世界ではないからです。
 
とはいえ、そこまでの20年間の理想的なトレーニングのプロセスを自然と踏んできた人に比べたのなら、ハンディキャップが大きいのは明らかです。
 
この場合、歌であれば、声そのものよりも、リズム感や音感、メロディを正しく歌うとか、音程を外さないとかいうようなことの方に課題がとられてしまい、その練習をしなくてはならないでしょう。
つまり、下手に思われないために、普通の人のレベルになることが目標になりがちなのです。
 
それであれば、レッスンを受けたところで、3年、5年経って、よほどのことでない限り、学校のクラスでいえば、まんなかあたり止まりでしょう。少なくともそこでの一番の人を追い抜くような力にはならないはずです。
 
このあたりが、日常の中で、知らずと、そういった芸事の基本が仕込まれてきているものの難しさです。声もそれに当たります。
 
これがもし、楽器の演奏やスポーツ競技でしたら、3年、毎日のトレーニングを受けていたら、クラスで1番になれるでしょう。バスケットボールなどをやったことのない子でも、2年もクラブでやれば、クラスの中でトップクラスになれるはずです。
 
日常に結びついているものほど、トップに優るのは難しいのです。
例えば、100メートル走であれば、陸上部に入ったからといって、クラスでトップになれるかどうかわかりません。大体、最初からトップレベルの人しか、そういう部には入らないでしょう。クラスでビリの人が入っても、まんなかくらいまで伸びたら、よいほうでしょう。
 
でも、持久走の場合でしたら、まだトップクラスになれる可能性があるでしょう。
この辺も、どのぐらい日常の中にトレーニングが入り込んでいるかというところから、判断してみると、わかりやすいかもしれません。
 
〇声とヴォイトレの特殊性
 
わかりやすい例でいうと、20歳にもならないのに、まったくの経験もないのに、街でスカウトされたら、すぐにプロとして活躍した人もいます。それどころか、大抜擢されて、役者、それも主役であったり、歌手、それもデビューして大ヒットしたりしている人もいるわけです。
スポーツの選手や楽器のプレイヤーの世界では、こんなことは100%ありません。
 
それが珍しくないのが、歌手や役者です。
とはいえ、それとて条件は限られているわけです。誰もがすぐにそのようになれるわけではありません。スカウトされるのも、1万人に1人もいないわけです。
その判断が、声でなく、ルックスであったりするから、なおさらややこしいのですが。個性の魅力、それが声にまで関係している場合があったり、なかったりするのです。
 
話を戻しますと、それだけ、声や歌についてはトレーニングというものの位置づけや方向、メニュやこなし方について難しいということです。
 
ヴォイストレーニングというものに関して、声に関しては、あまりに複雑で、いくら解説してみたところで、個別にケースバイケースとしか説明できないものです。そして、その説明も、結果論にすぎないことが大半なのです。
 
何よりその結果というのが、声の成果として問われることは、とても少ないわけです。
そのため、ヴォイストレーニングというのは、声をトレーニングすると言いながら、実際に行われていることは、声そのものよりも、それ以外の要素を学ばせていることが多いです。機能的な要素、発音、滑舌、音程、リズム、高音、ファルセットなど、わかりやすい要素です。
明らかに矛盾しますが、それが現実なのです。
 
ですから、ある意味では、その人の総合力、地力、演技力、表現力、魅力の開発というように捉えた方がよいのかもしれません。
 
〇第一人者、トップの盲点
 
それなりに早く第一人者になった人ほど、トレーニングとしては、バランスの調整を乱さないことを徹底して行います。その人が強化的なトレーニングというプロセスを自覚していないからです。
幼い頃から長い時間をかけてきたものは、自分では自覚しないまま身についているわけです。
それは、その人の資質、天分とは、また違うことが多いのですが、生まれ持って、それが得られてきたと思えるものです。
 
そういう人ゆえに、「鍛錬強化などは、とんでもない」と発言する人も、多いわけです。
天性の才能なのか能力なのか、そういったもので、自分の努力が報われ、そのまま通用するようになったような人には、本当に自分の良心から、人に対して優しく、無理なことを押しつけずに、「声はしぜんがよい、呼吸や声のトレーニングなど余計なことだ」などとアドバイスしているのです。
 
しかし、そういう人のもとでは、同じように恵まれたタイプの人以外、育つことはありません。その人を超えられないどころか、その人の技量同等に生涯、追いつけないわけです。
それを私は、多くのスクールや養成所、劇団やプロダクションでも見てきました。
つまり、何年経っても、先生のレベルを超すどころか、そこに到達することさえできないのです。
 
〇日本の保守性
 
私が優れた指導者と思う条件は、自分より優れた人を育てるということです。
それには劣りますが、並の指導者であるのなら、少なくとも、自分と同じレベルに、自分よりも早く到達させるということです。
どちらもできてないなら、その人は優れた実演家であっても、優れた指導者とはいえないと思います。
 
第一人者や一流の人のまわりは、そのファンが集まりますから、なおさら、その人の影響を受けて、オリジナリティある新しい世界を開けることは、難しくなります。それも、そこに行く人の資質の限界だといえば、それまでのことですが。
 
特に同調圧力が強く、師の芸風や前例をそのまま写しとっていくことによって評価されるような日本では、難しいのです。新しく突飛なものを出すと、異端視されます。評価されないどころか居場所もなくします。
そうして、ますます、その傾向が助長されるわけです。古いものをどんどん保存するということにたけていき、新しく打ち破るようなものが、出てこなくなります。
そういったものは、こういったところで学んだ人からは出てこないわけです。そして、いつしれず形骸化していくのです。
 
〇武器を鍛える
 
自分がそういった素質や育ちを持たずに、実力がないと思ったら、鍛錬強化しかないはずです。もちろん、それだけでは足りませんが。
武道やスポーツでも、力任せの一直線の鍛錬強化というのは、限界がきます。そこは考えておきたいものです。
 
トレーニングは、それを行なっていない人よりは、よくなりますが、きちんとこなしている人には、かなわないわけです。
それは何かというと、結局は、結果、その出口で判断されるのです。
それをどのように見せるのか、どのように聞かせるのか、そうした意味での作品がすべてということです。
 
つまり、鍛錬強化で得られるのは、肉体はツール、武器に過ぎないわけです。武器はなくては戦うのに不利ですが、それがあったからといって、使いこなせないのであれば、なおさらよくありません。
 
強力な武器ほど、それをきちんと使いこなすには、入念な準備や使い方に関する技術が必要となります。だからこそ、その出口、つまり目標をきちんと捉えていかなくてはならないのです。
 
それは、私が研究所の発足時、まだ養成所のような段階であった頃、発声を教えていたときに、気づいたことです。
声のことだけを集中して練習していくので、声は強く大きくなっていきます。
しかし、それは、決して歌やせりふではないのです。それを支えるための、10分の1の条件にしか過ぎません。
 
〇声は10分の1
 
私は、歌やせりふにおいて、「声そのものの力は、10分の1だ」と最初から述べてきました。しかし、その10分の1でも確実に得られるのであれば、大きな力になるということです。
 
才能というものがあるとかないとかは、わかるようでわからないようなことです。
しかし、声はきちんと聞こえますし、相手に伝わります。たとえ10分の1でも、確実な技量があれば、それは明らかに有利な条件になるわけです。
 
ただし、声の力だけを自分の力と考えてはなりません。トレーニングのある一時期においては許されるかもしれませんが、どう考えても、歌唱やせりふに、声を目一杯使うということはありえないわけです。声の可能性として、トレーニングとして行っておくというものなのです。
 
何度も繰り返していってきたことですが、トレーニングというのは、意識的に部分的に強化をめざして行うことです。そのために全体のバランスが崩れることは一時、許容して、筋トレのように行うわけです。
だからといって、その筋トレだけでは、バランスが調整できずに、結果としてもうまく出なくなります。常にどこかでバランスを取ろうとしなくてはならないわけです。それは、目的や結果のところから修正されていくというのが、理想的です。
 
つまり、歌やせりふのときに、無意識に調整される、ステージ、あるいは、その感覚で正されるということです。
筋トレと武道やスポーツの試合の関係を考えてください。
それは、うまく応用できなかったので、まずは、そこを調整すればよいわけです。
脱力をしてみたり、よりしなやかにていねいに使えるように精度を増していくわけです。
そうした練習では限界というときに、今度は、強化トレーニングを取り入れていけばよいのです。いえ、上達をめざせば、おのずとそういう流れになっていくものです。
 
〇余力をもつ
 
最初からそれらが同時に入れられたらよいのですが、なかなかうまくいかないので、武道やスポーツの場合は、最初は、力任せが多くなります。
声には、それでは危険なので、呼吸や発声で共鳴を伴わせながら、ヴォイストレーニングでは、慎重に時間をかけて行っていきます。
 
スポーツにおいて、バランスということで、体幹トレーニングなどへの時間をかけることが多くなったのも、鍛えただけの肉体では、機能的にスムーズに働かないからです。
しかし、ここで間違えてはいけないのは、できてもいない身体で、コアトレーニングや体幹など行なっても、大きな効果は期待できないことです。
日常生活での怪我などを防いだりするには、よいのですが、ハイレベルな本番で通用するものではないということです。
 
せりふや歌をどのレベルで捉えるのかはとても難しいことです。しかし私は人前で舞台で肉体をもって披露するものに関しては、スポーツや武道と同じくらいの、身体能力の強さを求めたいと思っています。そこまで必要ないという人もいますから、それはそれで結構だと思いますが。
 
トレーニングである以上、3割ほど普段の必要度よりも余力を持っておくのが、本番に対する備え、リスクヘッジだと思います。誰でも体調不良や調子の悪いときもあるのですから、余力ゼロでは持続的な活動を続けるのは難しいでしょう。
 
加齢などによって、体力が落ちてくることもやむを得ないことです。病気や怪我も人間ですからあるかもしれません。そういったことに対して、備えていくのも、トレーニングの1つの目的です。
 
〇即興と蓄積
 
マニュアル本などのやり方などをみて、そのまま行う人がいます。あたりまえのことでしょうが、困ったなと思うのは、すぐに即効的な効果、そのメニュをやった後によくなったかどうかということだけで、判断、評価されることです。
 
どんなトレーニングであれ、しっかりとした効果を上げていくものは、その分、時間がかかります、繰り返さなくては、本当のところ、伸びていかないわけです。
 
そのときにすぐに効果が出るのは、感覚の変え方や形での使い方を変えたという程度のものです。
それがそのように歪んでいたということは、もとより根本的なところでの判断力や修正して整えておく能力がないということです。
それを教えられたり気づいたりしているようでは、結局、直したところで、大した力にならないということなのです。
 
そういったことで、間違った方向にどんどんと自分勝手に進んでいくことを止める、見直す機会になるという点では、そういったマニュアルや注意も使いようによっては有効なことだと思います。
 
ただし、そこで気づかないようなことは、本来は、自分自身がもっと深く勉強できるようにしていかなくてはならないということです。
本当に教えられること、指摘されるべきことは、自分が切り開いた新しい世界に対して、自分自身がまだ判断がつかないということです。☆
 
そうした方向性の先に、何か可能性があるか、探り、突き詰めていくというようなものです。それには、いろんなものをたくさん見て、より優れたものを知っている人たちと混じり合うこと、そうしたところでの直感を頼りにすることがよいことだと思います。
 
本を読んだらわかることや他の人の振りを見たら直せるようなことは、自分自身で修正する能力がなければ、とても先にいけません。
それをいつも教えてもらうのでなく、教えてもらったことから、教えてもらわないようになることです。1を見て十を知る能力、それこそが自分の世界を切り開く力になるのです。
 
それを、教えてくれるのは、なによりも一流の作品です。一流のアーティストが天の啓示のようにつくり出した作品の働きかける力です。それを充分に味わってください。
すると、小さなことなどあまり気にならなくなります。あなたが欠点を直そうなどとしなくても、そんなことで大きな世界が左右されるようには感じなくなります。
 
その大きな世界に行くにつれ、小さな欠点などは、より大きな上昇に飲み込まれてなくなっていきます。
どのレベルでレッスンをするのか、トレーニングをするのかというのは、とても大切なことなのです。それが、その伸び、将来性を決めることになるからです。
 

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