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共感コミュニケーション(NVC)とパートナーシップ



非暴力コミュニケーションとは?


NVC、非暴力コミュニケーションというものを聞いたことがありますか?
NVCは共感をベースにしたコミュニケーション。私はあまりコミュニケーションに難しさを感じるタイプではなかったけれど、7年前くらい(結婚後、出産前)に初めてNVCをまなび、いかに自分が自分に共感していないかということに気づきました。カルチャーショックのような衝撃があり、そこから私は自己共感に目覚めていきました。自分に共感しながら、相手とコミュニケーションが取れるようになってからは、相手との関係性が飛躍的に進歩したように思います。

もともとそんなに喧嘩をすることも無かったけれど、喧嘩(話し合い)の質が良くなったし、喧嘩がますます有意義なものになりました。(喧嘩をしちゃうところがまだまだだけど、その分、熱いものも、深まるものもある。)そんな中でも毎回喧嘩の原因となるのは同じことで、つい先日、その毎度毎度の喧嘩の中に隠れている自分のニーズに気がついた途端に、相手にも変化が起こり、私たちの中でずっと問題になっていたことが宝物になるという体験をしました。(このことに関してはいつか記事にしますね。)


NVCを難しくしているのは?

最近、ヨガのコースの中にNVCを取り入れているのですが、「難しい」「できない」という意見が多くてびっくりしています。メソッドになった途端に難しく感じてしまったり、できない感覚が押し寄せてきてしまうようなんだけれど、私はそれは幻想だと思っています。もちろん共感やコミュニケーションが極端に苦手な人もいるかもしれないけれど、実は私たちは暮らしの中でいつも共感しています本当は共感の感覚を持ってるんです。それを自分に備わっていない感覚だと思うから、ますます遠のいてしまうのです。
ヨガが本来私たちの持っている能力や感覚を引き上げるものであるのと同じように、「共感」も本来私たちの中に備わっているものだと気づくことが、本来のコミュニケーションに立ち返っていくために必要な感覚だと思うのです。



私たちは本当はいつも共感してる

私たちは共感なしには暮らせないほど、暮らしの中で共感しています。
例えば子育て。うちは、適当なオムツなし育児をやっていたのだけれど、あれこそ共感。赤ちゃんの顔が変わった時、動きが変わった時、赤ちゃんに共感すると「うんちしたい!」って思っているのがわかる。「あ、うんちしたいんだね!」でおまるに連れていく。おまるでうんちする。踏ん張る。気持ちよさそうな顔をする。「あ、気持ちいんだね。」共感してるから自然と動かされる。「嬉しいね」「気持ちいいね」を共有していくうちに、あっという間におむつが取れる。共感し合う関係性の中で生まれる力はパワフルだから、お母さんと赤ちゃんの2人の感覚がサポートしあって、2人でゴールに向かっていけるのだと思います。
おっぱいもそう。「あ、おっぱい飲みたいんだね!」「美味しいんだね!」「あー、お腹いっぱいになったら気持ちよくて眠くなっちゃったんだね!」「おっぱい恋しいね」「離れるのは寂しいね!」「ママのおっぱい疲れちゃってるみたい。」「ちょっと今日はおっぱいおやすみね」押し付け合うんじゃなくて、共感し合うから、お互いをサポートしたくて、一緒にいいタイミングで卒業していける。



現代は育児にもたくさんのメソッドがあるけれど、結局、その子その子によって最適なやり方は違う。そのメソッドを一生懸命やればやるほど、その子の感覚を無視することになって共感から遠のいていく。結局、その子に共感していくことで、その子にとって必要なことが見えてくる。

子育てって作業的にはなかなかしんどいことばかりだけれど、赤ちゃんの気持ちに共感して動かされていれば、こちらも自然に楽しくできる。そんなふうに、共感なしに子育てなんか絶対にできないし、本来、私たち女性は特に、ずっと共感している生き物だと思うのです。


家族の食事を作る時だってそう。「今日は旦那さんも汗だくになって仕事していたから、ちょっとしょっぱ目で、ご馳走っぽいの食べたいだろうな」「今日は私は軽めがいいけど、子供はお腹が空いてそうだからスープと麺にしようかな。」家族の体や心の感じに共感するから、その時のみんなを満たす食事を作ることができる。もちろん自分も含めて。暮らしの中に当たり前にある共感。共感なしに心地よい家族の暮らしは成り立たないのです。


共感を難しくしているのは?

赤ちゃんのお世話をしている時、私たちは言葉を介さずにコミュニケーションを取ります。だから共感が自然にできる。私たちには共感能力がある証拠。言葉を介したコミュニケーションが取れるようになってくると何故かそれがうまくいかなくなるような気がするのは、「言葉」そのものに原因があるのじゃないかなと思います。

私たちは「言葉」を通してコミュニケーションをとっているように見えるけれど、実はそれは本当に先っちょの表面の見えている部分だけで。本当は言葉でないところでたくさんコミュニケーションをとっている。距離感や、醸し出す雰囲気、それを通していろんなことを伝えあっているし、感じあっている。

学校や会社、西洋的な思想の中で動いているコミュニティーの中では、そういったものを無視するように設定されている。「たとえ何かを感じたとしても、言葉になっていないものや見えないものは無視するもの」と集団生活の中でそれが染み込んでいく。だから私たちは自分たちが醸し出すエネルギーや雰囲気に無頓着になっていくし、言葉以外で送られているコミュニケーションにも無頓着になっていく。私たちはそういった社会の中で、「言葉がコミュニケーションの全てである」と思い込まされ過ぎている。



私たちは言葉を通さないと共感ができないと思い込まされているところがある。言葉を通さないとコミュニケーションが取れないと思い込まされている。
これはなかなかにショッキングなことで、それが「共感コミュニケーション」というものを難しくしているところだと思うのです。


共感とは状態のこと

さらにいうと、
「共感」とは本来は言葉を介さずに起こる「状態」のこと。それを伝えるために言葉がある。
それを「言葉」の領域でやろうとするから、感覚よりも思考が動いてしまい、難しくなる。本当に共感すると言葉よりも先に行動が発動してしまう。感じたことに対して、何もできなくなったり、ついつい動かされてしまったり・・・。本当はもっと自然に起こることが共感なんです。

それこそ感覚的すぎて言葉で伝えることが難しいのだけれど、「共感」は身近であることを思い出せば、自分の中の共感力を発揮できるようになるのです

そして、言葉を超えて相手を感じる感覚を思い出してください。自分自身とつながること、自分自身の心とつながった人生を送ることを思い出してください。

自分自身が自分とつながり直すと、パートナー、家族、会社の人、身近な人との繋がりの質を強まっていきます。そしてそこから、素晴らしい共同創造につながっていくのです。

感じる力、感じて生きる力を思い出すことは、共感力を取り戻し、自分や他者との繋がりを取り戻していくこと。


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