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終わりと始まり

歌が溢れる 私の奥から
踊り溢れる 私の奥から
いつも夢に見たあの世界の色は
今ならわかる いつもここにあると

信じきれなくて 望みきれなかった
誰かのためにと蓋をしてしまった

あなたの望む世界を生きるのはあなた
私の望む世界を守るのは私

歌が溢れる 私の奥から
踊り溢れる あなたの奥から

2023年、9月。

どん底にいて、泣いていた数日。 私の奥から絞り出されるように生まれた歌。 この歌を車の中で絞り出して歌ってから、それまで泣いていたことが馬鹿みたいに 自分の人生にかえってくることができました。  


母として生きること

19歳の頃、初めて作品を発表してから、作品制作を続け、35歳で出産。そこからは子育てと家族を養うことに捧げた7年。
「家族を守り、養う」という大前提の上
で、「舞台を作る」という大仕事を細々と続けてきました。 けれども女性が「母親」という役割を果たしながら、経済的に家族を養い、それでも自分の創作活動を続けるというのはなかなか難しいことでした。

そこに追い打ちをかけるように、それまで数年にわたり新潟で積み上げてきたものが、火災によって消えてなくなりました。さらに今まで応援してくれた人たちから離れ、全く知らない土地、沖縄に移住することになりました。活動の場がなくなったことで、「家族を経済的に養うこと、日々を営むこと」が私の重要な役割となり、創作活動や自分のための練習の余力はほぼなくなりました。 


被災して見えたもの

「緊急事態だから仕方がない」「家族は喜んでくれているのだから」と言い聞かせながら、仕事をする中で「私は何のために生きているのだろう?」「創作しない私」「踊っていない私」そんな「私でない私」として、人と出会ったりコミュニケーションをとる中で生まれる違和感や、自分を知ってもらえない、深いところで繋がれないという虚しさは募っていきました。夫にさえも本当の私を見てもらえていないという悲しさがありました。

「ダンスする場をいただけないのであれば、30年以上にわたってダンスを通して培ってきた自分の感覚や能力を使って、皆さんに貢献しよう。」そのようにして始めたのが、ビジョンをおろして作り上げる、リトリートやワークという場作りでした。

貢献することから見えたもの

「リトリートやワークを通して 人々に貢献し、仕事をすることで家族に貢献する。 私の能力を活かしきる。」それは完璧な妻であり、母であり、プロフェッショナルではあったし、 生きがいややりがいを感じていたけれど、自分の魂の本質は表現者。火災の後は特に「踊る」という自分の本質を発揮する場を作り出す余力がないままに、自分の魂を生かしきれないことへの罪悪感に困惑していました。強い望みを後回しにするという、我慢が大前提の中で成立していた危うい幸せ。 自分の奥の望みを塞いだ上での幸せ。「このままでいいのか?」そんなフラストレーションは高まる一方でした。


離婚して見えたもの

最後の最後の禊をする時が来て、離婚しました。

多くの女性、もしくは人間が陥りやすい
「誰かのためにと、望みに蓋をする」
 こと。
「自分が犠牲になれば」
「まだもう少し我慢できる。頑張れる。」

それは責任感が強いという私の性質の現れでもありながら、私自身の逃げや言い訳にもなっていたと思います。

元パートナーとのやり取りの中で、自分自身と向き合った先に気がついたのは、私が私を愛せていなかったということ。それはほんのちょっとのことだったかもしれないけれど、そのちょっとが私の中に大きなずれを育てていたこと。

「誰にも必要とされなくても、誰にも愛されなくとも、どんなに否定されても、自分は大切な存在。」と私自身が、今この瞬間に思えていなかったことに気がつけたことは素晴らしいチャンスでした。結婚という時間を通して、よき母でよき妻であろうと、よき家族であろうと、私は私を捻じ曲げて生きることを始めてしまっていたということに気づくことでした。私は「元の私」ではなかったのです。

愛される心地よさ、家族がいることの安心感に慣れてしまったのでしょう。「結婚したからには家族を幸せにしなければならない」
「別れることはいけないことだ」
と思い込んでいたところもあるでしょう。


「自分の魂がやりたいことを犠牲にしてまで守るべきものは何もない。」


「瞬間瞬間に自分の魂に与える環境を最適化する必要があるし、
 最適化していい。」

20代の頃から、「自分の魂を守る」ということはかなり意識してやってきていたけれど、それでも家族を持つことで私の中にもが生まれていたようでした。そんな声が沸いてきて、そこからは「私自身が私を大切にしてあげる。」ということと徹底的に向き合いました。私が望むことを全部する。全国どこへでも行って、踊りの場に自分を置く。家族の交通費や生活費の心配をせずに、私優先で、やりたい仕事をさせてあげる。それはもちろん楽なことではありませんでした。シングルマザーとなり子供を抱えて、山ほどの事務仕事をこなしながら、日常の全てをこなしました。ワークショップの仕事となれば、20キロ越えの荷物を1人で担ぎ、子連れで飛行機に乗って、バスに乗って、電車に乗って、出かけて行っては子供の世話をしながら、セレモニーやワークショップをリードしました。それはそんなに簡単な仕事ではなかったので、ぎっくり腰になり、痛みで泣きながら、なんとかこなしていました。母として、事務局として、アーティストとして。1人何役もの仕事量に緊張状態が続き、不眠になりながら、現場では1人のプロフェッショナルとして本番を踊り、場をホールドし、ワークをリードし、走り続けました。

「ママ、いつもありがとう。ママ、がんばれ。僕が守るから。」彼の言葉に救われました。何度も2人で抱き合い泣きました。母親もサポートしに沖縄まで来てくれました。何はともあれ、「私」として「私」の仕事をするうちに、サポートしてくれる人が現れ始め、出会う人、関わる人もすっかり変わっていきました。元パートナーも別の形でサポートしてくれるようになり始めました。

氣がつけば、結婚する前、火災に遭う前の、パワフルでスピーディーで自由な自分の性質がかえってきました。いつでもたくさんの美しいご縁に恵まれ、自分を表現する暮らしに、いつの間にか帰ってきたのです。

ただいま、自分。
おかえり、自分。

そんな2023年でした。

2024年はより自由に私を表現する年に。

新しいスタイルのライブパフォーマンスを通してダンスによる瞑想の意識を体験してもらえる機会を作っていきます。 昨年運営し、世に提示してきたリトリートやワークなど、人々が魂を生きることに目覚めていく場作りを、国内外のアーティストと共にグローバルに創造していきます。

ダンスアーティストとして、世界の民族や日本の民族が 舞踊を通して残してくれたものを表に出していくこと。 体験的に「わかる」「できる」機会を創造していくことで私達の世界が スピリットの世界、 見えない世界と繋がりなおすための仕事をその世界を大切に生きる仲間たちと共にしていきます。


最後に


長くなってしまいましたが、本当にしんどかった3ヶ月を超えて、私達は今信じられないほど幸せなところにいます。ずっとずっと望んでいた世界を100%生きています。

深い痛みは、膿だし。
無意識が積み上げた癖と魂の望む世界とのズレを修復する手術。

だから、自信を持っていいます。
変化を恐れないで。終わることを恐れないで。

私たちは簡単に思い込み、簡単に自分の能力を封印します。
評価・批判、嫉妬、妬み、嫉みはいつだって、
私を萎縮させ遠慮させます。

それでも私たちは一つ一つそこに気がついて
いつでもそれを辞めることができるし
新しい在り方を立ち上げることができます。

私はその後押しをしたいし、
世界から制限がなくなっていくことを願っています。
だからこそ、この制限と自由を両方体験しているのだと思います。

これからますます、古いパターンにしがみついていくことが、苦しみや摩擦を生み出すことになると思います。一瞬の痛みを避けるために、本当の心地よさを見失わないように。外側に投影されているものの中から、うちなる声を見つけられるように。

私たちが気づき続けていられますように。

この記事が必要な方に届き、自分を本当に生きることの後押しになったら嬉しいです。

Breathing art.
Lata


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