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瞑想をはじめてみよう。


1、どんな風に意識は育っていくの?

ヨガのアサナ(体操)や瞑想をするとき、慣れないうちはあれこれとマインドが動きます。
「足が痛いなぁ」「背中がかゆいなぁ」「お腹が減ったなぁ」「漫画の続きが読みたいなぁ」「今日は仕事で失敗しちゃったなぁ」「どうしたらあの人は私のことを好きになってくれるのかしら?」「どうしたらお金を手に入れられるかなぁ」etc…

マインドが動いている時、それに伴って「体」が動きます。顔をかいたり、背中をかいたり。頭が下を向いたり。お尻をもぞもぞ動かしたり。大抵は、自分が動いていることにすら気がついていません。そんな時ほど、意識が外側にばかりに向いているので、「外がうるさいなぁ」とか「音声が悪くて聞こえないじゃないか」とか、自分の集中できない理由を外側にばかり発見して行きやすいのです。

つまり「意識」が「思考」や「肉体」に向いていなくて、それらが完全に好き勝手に動きまわっていることに気づいていない状態です。
一般的な人間の日常的な状態はこういうものだと言えるでしょう。
つまりこれが「マインドフル」ではない状態、「意識」が生きていない状態です。

2、瞑想の進み方

①カラダの発見

たとえば3日くらい「瞑想をしよう」と座ることに取り組んでしていると、あるとき、「自分が動いていること」に気づいてきます。「あ、私、今顔をかいた!」「あ、お尻が動いた!」「あー、私ってなんて忙しなく動いているんだろう!」「こんなにも私って落ち着きがなかったの?」

そして初めて自分のカラダに意識を向け、観察することを始めるのです。そして意識を肉体に向けられるようになり、なんとかそれを客体として観察していられるようになってくると、今度はいかに「思考」が動き回っているかということに気づき始めます。

②思考の発見

思考と意識が一体になっている時は自分の「思考」の存在に気づくことはありません。ただ無意識の中で膨大な考え事は続いていきます。そして「瞑想しよう」というテーマのもとに座っている中、散々、膨大な考え事をした後で「あれ!私、今めちゃくちゃ色々考えていたけど、瞑想ってこれでいいの?これって煩悩ってやつ?」「これってどうやったら止まるの?」とまた考え始めるのです。

「思考を手放すってどうやるんだろう?」「考えない!考えない!考えないって考えてるけど、これって考えてるの?」「今、考えないって考えてた!」「何もしないってどうしたらできるの?」とか、「意識」と「無意識」の狭間でぐるぐるし始めます。

泥沼の中で葛藤していて、どうしようもないような感じがして諦めそうなところですが、そこまできたら、実は割といいところまで進んでいます。

とりあえず、「私の思考が激しく動き回っている」ということに気づいて、「思考」を 観察することができてきているのです。ブラボー!!


「観察」があるところには必ず主体と客体の存在があります。
つまり「意識」という存在に出会い始めているのです。

③意識の発見

そこから「意識」に「意識」を向けることが少しずつ始まっていきます。
実態のない「意識」を、意識を向けられる客体である「肉体」や「思考」の存在から発見していくのです。言ってみれば、瞑想が瞑想として成り立ち始めるとき、「意識」に対して「意識」を向けるということが行われています。段階の差はあれ、つまりはそのようなことです。

3、瞑想のステップを優しくするために必要になってくること

さて、このすべての過程をたどるとき、実は生活全般がとても重要になってきます。恐怖や憎しみ、恐れから心が揺れに揺れていたり、体調不良から心身が弱り切っていたり、悩みや欲だらけの心だったりすると、思考を沈めて観察することや、肉体を観察することがとても難しくなってきます。

「生活」というのはつまり、絶え間ない情報の選択と摂取により成り立つ、私たちを取り巻くエネルギーそのもの。自分にも優しく、他の生き物にも優しいライフスタイルを立ち上げていくと、健やかな習慣が生まれ、健やかな心と肉体と意識が育っていくということなのです。

4、瞑想を続けるとどうなるの?

あなた自身のバランスを崩すことは、必ず世界のバランスを崩すことにつながっています。瞑想の時間に発見した違和感や葛藤はあなたをあなた自身の囚われから解放するキーとなっています。

ひょっとしたらそれは「食べ過ぎ」とか「パソコンのしすぎ」とか「ゲームのしすぎ」「カフェインの取りすぎ」とか「お酒の飲み過ぎ」とか、些細なことかもしれません。「パンツのゴムがきつすぎる」とか「したくなかった結婚生活の中で我慢しすぎている」とか「やりたい仕事があるのに生活のために違う仕事をしている」「ブラジャーが私の女性性を締め付けている」とか、「アルミ缶のゴミを出しすぎている」とか、ちょっとファンキーなことかもしれません。生活の一つ一つを見直して、そう言った違和感から自分を一つ一つ解放してあげると、だんだんと本当に(心と体と意識体とすべて)リラックスできる状態ができて来ます。

そんな風に、少しずつ心おだやかに座れるようになってくると、心の平安というものを体験しはじめます。「何かを為さなければ」「何かをしなければ」「何かを手に入れなければ」そういったこととは遠く離れた、全てが満ち足りた状態です。それはその人の置かれた境遇や環境に由来しません。自分自身足りていないことなど何も無く、自分と他人という概念もなく、「敵」という概念も、「貧しい」という概念もなく、「不幸」という概念もなく、すべてがあるがままの今を体験しているのだという状態です。

「足りないものはない」という状態になった時に初めて「外側に向けて発信したいもの」が見えて来ます。私の活かし方が見えてくるのです。

最初はヨガのクラスの時間、瞑想の時間、趣味の時間の間だけ、心の平安や調和を感じることで十分満足かもしれません。その時間を体験する時間が増えていけばいくほどに、私というものは「平安」「調和」という色に染まっていき、「平安」や「調和」の状態を日常生活の中へ取り入れていくことが自然とできてきます。

座っていない時間、ご飯を食べている時、お買い物をしている時、畑を耕している時、夢を見ている時、そこから瞑想の準備は始まっているのです。


そんな瞑想も導き手の存在があるとより簡単に進めます。

インドのグルジと一緒に瞑想をするオンラインでの瞑想会があります。


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