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「自分だけが間違っていて、正しさは他の人のものである」

 こちらがたくさんお読みいただけたみたいで、まことにありがとうございます。みんなにはみんなのセクシュアリティ。
 


 ……10ヶ月前くらいにこちらのまとめを作って、

 前回のnoteをこの間書いて、今に至ります。
 恋愛感情がおおむね自発的に生じるものであるとか、性指向はおおむね向けたり向けられたりするものであるとか、そういうところすら感覚として知らなかった頃(まとめ作成時)からすれば、少しは遠くに来たのだと思ってもいい。はず。
 とりあえず自分の着地点としては、リスロマンティックのアセクシャル。加えておそらくはアロマンティックあるいはパンロマンティック。性自認(性同一性という方がいいのか)もいずれの性とも一概に言えない。というところ。そう納得することができたのは僥倖ですが、やっぱり実生活は少し不便だなという気持ちはやや据え置き。このあたりは致し方なしです。今回のnoteは、その実生活に対する今の感慨の話です。

 タイトル通り、「自分だけが間違っていて、正しさは他の人のものである」という感覚をずっと持って生きていました。その自覚もないくらい、ごくごく自然にそう思いながら。
 恋愛感情がわからない。恋愛に興味を持てない。他者に言うほど関心がない。
 性欲はわかる気がするけど、それを他者とやり取りする理由とか意義とかがわからない。そうしたい気持ちがない。そういえば性別のことだってよくわからない。
 といった具合に、人が持ちうる機微の七割? 近くがわからないまま社会生活を営んできたわけで。進行形ですが。
 いろんなことを諭され、勧められ、「まだ知らないだけ出会っていないだけ」みたいなことを善意とともに言ってもらいながら、そういうところから「もっと良い(とされる)状態」があるのだと漠然と感じながら、でも納得できないまま、だからこそすべてが恨めしいような日々。


 自分を許していくだとか受け入れていくだとか、よくあるそういう話もおためごかしの域を出ないし、「間違っているつってんのに許すもクソもあるか」ってなおさら拗ねるような日々。
「自分だけが間違っている」から誰のことも好きになってはいけなかったし、間違っているからこそ「ちゃんと誰かを好きにならなければならない」と思ってきたし、その傍らで、正しい皆は正しいことをこちらに伝えてくる。
 全部どうでもよかったし、聞きたくなかったし、聞いてどうなるとも思ってきた。人は人と生きることが最適解なんだろうな〜〜と思うだけ思って、「そんな側の言うことなんてぜってーいらねえそしてやらねえ」と内心ではねつけて。


 その呪いがこの頃ですべて解けたわけではないけれど(なぜなら自身で抱え込んだ呪いだってあるはずなので)。それにしたって、「思い込みが思い込みであると気が付く」までになんと時間のかかることか。
 前回のnoteを書いた後にようやく思えたのは「なんだ自分は間違ってなかったのか」ということで、もっと言うなら「(セクシュアリティに・恋愛指向に・それらすべての在り方に)正解なんてなかったのか」ということ。
 自分は今になって初めて、己の在り方に胸を張れるのかもしれないのか。そうすることでようやく、他の(正しい側だと思ってきた)人々のそれらだって許せるかもしれないのか。みたいなことを思って。思えて。


 今でこそ可笑しい話とはいえ、「正解はある」のだと何より自分自身が本気で信じていたし、でもその正解はほかの人々のものでしかなく、私が正解になれる日は一生こなくて、だから人々の正しさの模倣をして生きていくしかないんだって本気で思ってて。でも、だけど、「正解自体が存在しない」のなら、すべての前提から変わるわけです。
 自分だけが間違ってて他の人は正しいゆえに、その正しさを本当に憎んだりしてきたけれど、別にもうそこは憎まなくてもいいのか……ってことは自分の正しくなさだって恨まなくてもいいのか……?! そもそも正解がないんだから……なーんだ……そっか〜……みたいな……。


 思い込みが思い込みである、とわかることは本当に死ぬほど難しいのだと勉強になりました。あとは、「救いは勝手に編み出してもいいのだ」みたいなことも。
「これは絶対に変わらない道理なのだそういうものなのだなぜなら正しいとされているので」みたいに思いながらも、だけどそれが自らの負荷になるようなものなら、わりとやめてしまっても何とかなる。のかもしれない。たぶん。きっと。それで救われるのなら、やっぱり。
 それを撤廃したって他者をそうは害さず、かつ自身が楽になれるのなら、それは撤廃オーケーの目安といえるのかもしれません。手探りだけど。


 今の諸々をすべてどうにかする特効薬! みたいなアレではないにせよ、ひとつひとつ、ちょっとずつ、手に取れる範囲から楽にしていけたらそれに越したことはないよねえ。という本当によくある話になってしまった。オチがつけられないnoteです。
 恨みつらみも呪いもどうせ余るほど持っている以上は、それが原動力であることだって否定できるわけでもなし、それでも楽にできる部分はそうしていった方がまあいいよね。
 なんだかんだ生きているので。生きていくので。生きることを礼讃できなくたって、まあそれはそれ、これはこれ。日々の生活と成仏とお焚き上げを自分は頑張っていくんだよ。そのためにしか書いていないようなものを、読んでいただけることをとてもありがたく思います。おわり。


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