【嗚呼! 偏愛のグループサウンズ】その3 ザ・カーナビーツの最後の意地はレフト・バンク

 グループサウンズ時代の悲劇というものを一つあげるとするならば、バンドに楽曲を提供していた作曲家やディレクター連中のなかに、担当しているバンドの音を「邪道」と思っていた人間が結構いたことだろう。そういった連中はひたすらにファズ・ギターに白い眼を向け、バンド単体の音にストリングスとブラス・セクションをぶち込んだ。おまけに、「バンドに勢いがあるうちに大人びた楽曲(歌謡曲である)を提供してやらなくちゃ」という信念のようなものを持っていた。その昔のロカビリー全盛期に平尾昌晃、井上ひろし、水原弘が歌謡曲に転向して成功したという事実が彼らをそうさせたのだだろう。

 1968年2月のデビューシングルの両面をテープ逆回転のコミック・ソング『ケメ子の唄』、そして極めてセンスのいい自作のフォーク・ロック『ブーケをそえて』で固めて曲のヒットにありついたザ・ダーツの末路が好例だろう。彼らが同じ年の6月に発売したセカンド・シングル『いつまでもスージー』は浜口庫之助のペンによるものだった。ハマクラ先生、ダーツの新曲発表会でこうのたまった。「アングラ路線はやめて、立派なグループ・サウンドとして育てたい気持ちから『いつまでもスージー』『君は恋の花』を作ってみました」、と。果たして、『いつまでもスージー』はGS特有の抽象的な歌詞に古臭いブラスがまとわりつくだけのバンド色希薄な無味の歌謡曲となり、オリコン100位にすら入らなかった。『ケメ子の唄』が2位を記録した直後の余りにも早い転落だった。翌年、このバンドはメンバーチェンジを経た後にシングルをもう一枚リリースしただけでシーンから消え去っている。

 こういった有難い、実に有難いパターナリズムがバンドの猥雑なロック感覚をぶち殺し、キャリアを潰した面倒くさいケースはナンボでもあるんだけど、そういったGSの歌謡曲化の系譜の文脈で意外なくらい語られないバンドがいる。ザ・カーナビーツである。

 ザ・カーナビーツは極めて優れたポップ感覚をもったグループで、イギリスのザ・ゾンビーズのカバーである1967年初夏のデビュー曲、『好きさ好きさ好きさ』のリリース時点で既に、ティーンエイジ・イノセンスを重いビートに載せるという難しい行為にアッサリと成功している。ここから和製マージービートの大傑作である67年9月のセカンド・シングル『恋をしようよジェニー』、デイヴ・ディー・グループをカバーした10月のサード・シングル『オーケイ!』を連続でヒットさせている。ここまでの彼らは非常に洋楽志向が強いグループとしてロック→ロック→ポップの順に成功していた。更に1968年2月には来日中のウォーカー・ブラザーズのゲイリー・ウォーカーとコラボした『恋の朝焼け』もヒットさせ、そのキャリアと音楽性がピークを迎えた。『恋の朝焼け』のライナー・ノーツでゲイリーが述べている「彼らはタムラ・モータウンだよ」は言い過ぎだとしても、イギリスのトップ・アイドルに世辞を言わさずにいられないだけのセンスはあったのである。

 彼らのキャリアに影が差した瞬間は、1968年5月の5枚目『愛を探して』だった。デビューからロック→ロック→ポップの優れたリリース戦略を行っていた彼らの4枚目が地味極まりない箸休め的なロッカ・バラード『泣かずにいてね』だったことを考えたら尚更だった。箸休めをした後は、思いきり脂っこいロック・チューンのリリースがなされるべきだったのに、『愛を探して』は「ロッカ」すら付けようのない単なるストリングスまみれの歌謡バラードでしかなかった。この曲を自発的に作詞してバンドに持ち込んだのは川内康範。『月光仮面』の作者である。軽快なロック・ポップス路線で成功していたバンドの命脈はここでほぼ、尽きたといっていい。

 ザ・カーナビーツは『泣かずにいてね』~『愛を探して』での失敗を取り戻すべく1968年8月の6枚目シングルの両面に『ウム・ウム・ウム』『モニ―・モニー』をもってくる。自家薬籠中の物であるカバー曲シングルの題材に、ウェイン・フォンタナとトミー・ジェイムスを持ってくるその洋楽センスはいささかも衰えていない。だが、前の2曲で離れたファンは遂に戻ってはこなかった。この両面をカバーで固めたレコードは辛うじてオリコン72位に潜り込んだが、これがザ・カーナビーツ最後のヒット曲となる。

 ……前置きが長くなったけど、本題はここからである。その次の1968年10月の7枚目のシングル『マイ・ベイビー/恋の想い出箱』が今日のテーマなのだ。

 A面の『マイ・ベイビー』については特に言うことはない。激しいファズ・ギターと、ニュー・ロックの萌芽を感じさせるベース・ラインに「おっ」と思わせられるだけで、曲自体は閉塞感が漂う歌謡曲である。そして勿論、ブラスとストリングスが多用され、バンドの個性を殺している。だが、B面の『恋の想い出箱』は違うのだ。最初聴いた時の印象は、「曲調自体は典型的な稚気に満ち溢れたバブルガム・ポップで、メンバーの自作曲」という感想だけ。特に何かに注目する部分はなかった。だが、何か変な違和感だけはずっとあった。『恋の想い出箱』にはGS時代の自作曲に特有な強引な曲展開もあるし、気恥ずかしいだけの唐突な語りまで入る。なのに、奇妙なくらいポップ・ソングとして完成しているのだ。

 その違和感が氷解したのは先日のことで、ふと、同時代のアメリカのグループ レフト・バンク(THE LEFT BANKE)の『いとしのルネ(WALK AWAY RENEE)』 を久しぶりに聴いた時だった。


 以下を聴き比べてほしい。まずは1966年に発表された『いとしのルネ』の1分25秒からのフルート・ソロがこちら



”バロック・ポップ”と称された極めて美しいクラシック志向の楽曲に花を添えてる演奏だ。

次に『恋の想い出箱』の25秒から始まるコーラス・ワークを聴いてほしい。


 受け取り方には個人差があるだろう。だが、極めて似ていると感じるのは気のせいだろうか? 

 ザ・カーナビーツの自作曲は少ない。この『恋の想い出箱』以外には1967年のデビュー時のアルバム群に『夕陽が沈む町』『すてきなサンディ』『吹きすさぶ風』(いずれもポップスの傑作である)の3曲があるだけである。だが、彼らのキャリアが始まったイケイケの時の3曲とは違って『恋の想い出箱』は人気がハッキリと下降線を辿り始めてから唐突に出来た曲だ。

 思うのだけれど、彼らザ・カーナビーツはバンドの寿命が尽きかけようとしていることに気づいた時、自分たちのキャリアを盤石にしたカバー曲や、それを転落に追いやった歌謡曲群ではなく、洋楽志向のオリジナルでもう一勝負したかったのではないだろうか。それも、『いとしのルネ』のような完璧なまでに美しい旋律で。

 だが、結果としてそれは失敗した。曲は成功しているのだ。しかし、不気味なほどの背伸びをしながら過去を振り返ろうとする『恋の想い出箱』の歌詞が成功を遠ざけたのだ。そこにあるのは、短く甘いザ・カーナビーツの成功の期間を全力で客観視しようとする努力であり、レコードデビューから僅か1年半しか経っていない10台の年齢バンドがやると哀しさだけしか残りはしなかった。

 結局、ザ・カーナビーツはこの後、ビートルズの『オブラディオブラダ』のカバーを出し、もう1枚だけ企画モノのダンス・ナンバーを出して1969年の暮れにキャリアを終える。だが、彼らのキャリアが潰えようとしていた末期に、真っ向からレフト・バンクに挑んだという事実は特筆されなければならない。少なくとも、プロコル・ハルム『青い影』以前にクラシック音楽に果敢に挑んだ『いとしのルネ』、この曲に全力で挑もうとした日本のバンドは、ザ・カーナビーツを除いてどこにもいないのだ。







 

 

 





 

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