アナログ派の愉しみ/音楽◎團伊玖磨 作曲『ひかりごけ』

世界でいちばん
恐ろしいオペラかもしれない


世界でいちばん恐ろしいオペラかもしれない。

 
太平洋戦争の敗色濃い1944年(昭和19年)暮れ、厳寒期の北海道・知床沖で軍属の仕事に従事していた漁船が難破し、同じ村在住の船長と乗組員の計4名はかろうじて陸に辿りつき洞窟のなかへ避難した。だが、あたりは凄まじい風雪と流氷に閉ざされて身動きできないまま、着実に飢餓が迫ってくる。3日が経ち、最もからだの弱っていた乗組員のひとりが息絶えると、船長は「俺たちはお国のために必要だ」と告げて遺体を食糧として保存し、3日後に、船長と若い西川は口にして、あくまで拒んだ乗組員のもうひとりは「ひとの肉を喰った者は首のうしろに、ひかりごけそっくりの緑色の光の輪が出る」と言い残して絶命する。さらに、10日が経過して、貯えのふたり分の肉が食べ尽くされると、ふたたび餓死と向きあう船長と西川はこんな会話を交わす。

 
西川「おら、おめえには喰われねえぞ」
船長「死ねばどうでも喰われるでねえかよ。喰われねえでは、いられねえよ」
〔中略〕
西川「おら、海にはまって死ぬだ。おめえの手のとどかねえところで、死ぬだ」
船長「何でそったら意地わるいことするだ。おめえはもっと、素直な男でねえのかよ」 
西川「おめえに喰わせるくれえなら、フカに喰わせるだ」。
船長「西川よ。待てや。そったらもってえねえこと、するもんでねえだ。西川よ、待たねえか。俺をひぼしにして何になるだ」

 
学生時分に初めてこの個所を読んだときの戦慄を思い出す。武田泰淳の『ひかりごけ』(1954年)だ。これは実際に戦時下の北海道で起きた「難破船長人喰事件」にもとづく中篇小説だが、その主要部分が上記のように戯曲形式で記述されているため舞台や映画になってきた。のみならず、團伊玖磨が二管編成のオーケストラによる堂々とした音楽をつけてオペラにまで仕立てあげた。わたしが知るかぎり、古今東西のオペラで真正面からカニバリズム(食人)を取り上げた作品は他に例がない。まったくもって、どんなつもりだったのだろう?

 
團はオペラの分野で処女作『夕鶴』を1951年に完成させたのち、『聴耳頭巾(ききみみずきん)』『楊貴妃』といった子どもに見せても安心な題材に取り組んでから、手のひらを返したごとく、1972年にこの異形の『ひかりごけ』を発表している。したがって、『夕鶴』と『ひかりごけ』のあいだには約20年の開きがあるわけだが、わたしは両者がまるでふたごの作品のように見えるのだ。

 
その理由をかいつまんで説明しよう。昔話の『鶴の恩返し』(『鶴女房』)をベースとしてつくられた『夕鶴』の核心は、およそ生活能力のない男のもとへ、かつて命を救われた鶴が女に化身してやってきて嫁ぎ、おのれの羽根で高価な布を織ることによって恩返しするところだろう。つまり、自分のからだを犠牲にして相手を生存させようとする話だ。それに対して『ひかりごけ』のほうは、相手のからだを犠牲にして自分を生存させようとする話と要約するなら、両者が表・裏のパラレルな関係になっていることは明らかだろう。男爵家に生を享けながら、7歳のときに三井財閥総帥だった祖父が暗殺される「血盟団事件」(1932年)に遭遇して、人生観が変わったという團にとって、こうした生身のからだをめぐる犠牲と生存の対立こそが重大なテーマだったのに違いない。

 
『ひかりごけ』の後段は法廷の場となり、ただひとり洞窟から生還した船長への告発が繰り広げられる。検事が高飛車な態度で「船長として大切な乗組員の生命を預かる身にありながら、3人を守れなかったばかりか、逆にかれらの肉を喰うことで自分だけが生きのびた卑劣さ」を糾弾し、弁護人が情状酌量を求め、裁判長がしきりに本人の正直な告白を促すなかで、被告席では同じ言葉が繰り返されるばかり。

 
船長「私は我慢しています」

 
このセリフは、『夕鶴』の主人公が自分の尽くした夫に裏切られながらも、静かな笑顔を浮かべて立ち去っていくときに胸のなかでつぶやいていたものと同じだろう。船長のほうはと言えば、やがて重い口を開いて「私は他人の肉を食べた者か、他人に食べられてしまった者に裁かれたい」と述べて、法廷内を見まわすと、裁判長や弁護人、傍聴席の男女のすべての首のうしろに緑色の光の輪が現れるのを目の当たりにする……。その不敵な眼差しはおそらく、われわれの首筋にも向けられているはずだ。

 
恐ろしいオペラである。

 
 
【追記】
熊井啓監督の映画『ひかりごけ』(1992年)についてもひと言しておきたい。飢餓に瀕した洞窟のなかで、最初に息絶えた乗組員のなきがらを解体して、はじめて人間の肉を口にしたときに、若い西川(奥田瑛二)は吐き戻しそうになるのを懸命にこらえて呑み込むが、船長(三国連太郎)のほうは頬をふくらませてむしゃむしゃ、むしゃむしゃと咀嚼していく。以来、その無表情な顔つきが前触れもなく、昼間の食事中や、深夜の夢のなかで、ふとよみがえってはわたしを脅かすようになった。それは、生きるかぎり解き放たれることのない、食欲というもののおぞましさを突きつけてくるように思えるのだ。
 

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