アナログ派の愉しみ/本◎ヴォールレーベン著『樹木たちの知られざる生活』

農耕地の植物は口をきかなくなる――
それはわれわれへの予言だ


いま思い出しても胸が昂ぶる。わたしは東京・小平市で小学生時代を過ごしたが、当時はまだ濃厚に武蔵野の面影が残っていて、あちらこちらに生い茂った雑木林が格好の遊び場になっていた。放課後には男の子も女の子も、板の切れっぱしやらダンボールやらを持ち寄って床と壁を組み立てたり、木の股に差し渡して2階をこしらえたりしたのを「基地」と称して、時間がたつのも忘れて遊び耽ったものだ。

 
だれしも記憶にあるのではないだろうか。そんな自然の懐に抱かれているとき、まわりの木々からテレパシーらしきものが訪れて、くすぐったくなるようなときめきを覚えながら交感しあう、あの神秘の体験が。手を伸ばせば、コナラやクヌギの湿り気を帯びた樹皮が指先に触れ、頭上を見上げれば、初夏の日差しのもとで若々しい葉が生命力を発散している。すべてがにぎやかでまぶしかった……。

 
そんな昔日の光景が蘇ったのは、ペーター・ヴォールレーベン著『樹木たちの知られざる生活』(2015年)と出会ったからだ。1964年ドイツ生まれの著者は、ラインラント=プファルツ州営林署に20年間勤めたのち、フリーランスで森林管理の仕事に携わりながら、この本を著したという。そこには、わたしの幼時の謎を解き明かす知見がふんだんに盛り込まれていたのだ。たとえば、樹木はおたがいに根をつないでネットワークをつくり、栄養不足で弱った仲間がいたら融通する「友情」があるそうだ。

 
「では、樹木はなぜ、そんなふうに社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が一本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない」(長谷川圭訳)

 
のみならず、より積極的に危機に立ち向かうために樹木たちは「会話」も行っている。おのれの葉を食い荒らす動物や昆虫による災害が迫っている場合には、芳香物質や電気信号により警報を発信しあい、それぞれ動物や昆虫の嫌う有毒物質を葉に集めて撃退するそうだ。わたしは納得した。そう、あのとき武蔵野の雑木林のなかで子どもたちが感応したテレパシーも、こうした樹木同士の親密なコミュニケーションがもたらしたものだったのに違いない。そのうえで、著者は指摘する。

 
「森林というコミュニティでは、高い樹木だけでなく、低木や草なども含めたすべての植物が同じような方法で会話をしている可能性がある。しかし、農耕地などでは、植物はとても無口になる。人間が栽培する植物は、品種改良などによって空気や地中を通じて会話する能力の大部分を失ってしまったからだ。口もきけないし、耳も聞こえない」

 
これは果たして、植物のことだけを言っているのだろうか?

 
今日、われわれが自然の懐に「基地」を見失って久しく、インターネットのとどまるところを知らぬ支配もあいまって、いっそう人工的環境のもとに閉塞されつつある。その結果、人類は(自分では会話しているつもりでも)いつの間にか口もきけず、耳も聞こえず、すっかり無口となり、しかもそのことに気づかずにいるのかもしれない。著者が伝える栽培植物の姿は未来への恐ろしい警告なのである。


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