アナログ派の愉しみ/映画◎ダルトン・トランボ監督『ジョニーは戦場へ行った』

今日、反戦映画が
鳴りをひそめた理由は


かつて反戦映画というジャンルがあった。現在でもあるのかもしれないが、それがレッキとした謳い文句になったり、教育の現場がさかんに推奨したり……といった風潮は過去のものとなったように見える。そうした反戦映画のなかでも、ひときわ深く記憶に刻まれているのがダルトン・トランボ監督の『ジョニーは戦場へ行った』(1971年)だ。アメリカから日本にやってきたときにはたいそうな反響を呼び、中学生のわたしも教師の勧めで映画館へ向かったのだった。

 
しかし、その内容は中学生が鑑賞するにはあまりに凄まじかった。タイトルは、アメリカの軍歌のフレーズ「ジョニーよ、銃を取れ(戦場へ行け)」に由来する。コロラド州の田舎に生まれ育った純朴な青年ジョー(ティモシー・ボトムズ)は、第一次世界大戦が起きると徴兵され、恋人との一度きりのセックスを思い出に出征する。そして、敵国ドイツの地で戦闘中に砲撃を受けて、目・鼻・耳・口と手足を失い、ただ凹んだ頭部と胴体だけの姿となって病院に運ばれ、研究材料として人工栄養剤のチューブにつないで生かされることに……。

 
原作は、トランボ本人が1939年に出版して発禁処分を受けた小説だ。ハリウッドの脚本家だったかれは、アメリカ共産党に加入していたために、第二次世界大戦後の「赤狩り」によって逮捕・収監されて、刑期を終えたあとも実名で仕事ができない状況が続く。そして、ようやく1960年代に至って復帰が実現すると、かつて発禁処分を受けた小説の映画化をめざして、みずから資金を調達し、さらに監督と脚本家も兼ねて取り組んだ。その意味では、自己の信念に忠実な筋金入りの闘士であり、できあがった作品が妥協のないものだったのも当然だろう。

 
あたかも実験動物の扱いだったジョーのもとに、新しい看護婦(ダイアン・ヴァーシ)が赴任してくる。彼女はベッド上の肉のかたまりをひとりの人格を持った男性と見なして心を配り、相手の悶々とした気配から、その胴体に残された性器を手に取って射精させてやったうえ、クリスマスには肌に指先で「メリー・クリスマス」の文字をなぞって激しい反応を呼び起こし、ついに言葉によるコミュニケーションの回路を開く。やがてはジョーのほうからも後頭部で長短のリズムを取ることで、モールス信号の形で自己の意思を伝えられるようになり……。

 
このジョーと看護婦のあいだの交流は、わたしにもうひとつの映画を思い起こさせる。トランボがハリウッド追放中に匿名で脚本を書いたことで知られる『ローマの休日』(1953年)だ。こちらは大人のファンタジーの甘いタッチではあるけれど、世界大戦後にヨーロッパ諸国の友好のため歴訪する某国のアン王女(オードリー・ヘップバーン)といった設定には、やはり反戦の思想を窺うことができよう。そんな彼女がローマに到着後、なかば偶然に宿舎の宮殿を抜け出して、アメリカ人新聞記者のジョー(グレゴリー・ペック)とともに24時間だけ自由な人格を持った女性として生きることになる。

 
すなわち、ふたりのジョーは対極の立場にある。『ローマの休日』のジョーは宮廷の光輝く虚構から王女を連れだすのに対して、『ジョニーは戦場へ行った』のジョーのほうは逆に看護婦によって病床の暗黒の虚無から連れだされる。そして、どちらのカップルもほんの束の間とはいえ、おたがいの生身の温もりを介して真実の人間性を取り戻す。

 
だが、それも肉のかたまりと化したジョーにとっては、しょせん一場の茶番でしかない。かれはモールス信号の連絡手段で、おのれを世間の見世物にしてほしいと伝え、それが拒絶されると安楽死を求める。くだんの看護婦がそっとチューブを抜いて希望を叶えてあげようとしたところ露見して、かれはふたたび虚無のなかにひとり取り残される。後頭部をベッドにぶつけて「SOS、SOS、SOS……」と発信しながら。自分の生と死から自分自身が疎外されてしまう。それこそ戦争が人類にもたらした恐怖であることを、トランボの映画は静かに強く告発するのだ。

 
もっとも、自分の生死から自分自身が疎外されるとは戦争にかぎらず、いまや医療現場でごく日常的に見受けられる光景だろう。今日、反戦映画がすっかり鳴りをひそめた理由はそこにあるのかもしれない。
 

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