アナログ派の愉しみ/映画◎セルズニック製作『風と共に去りぬ』

レットはスカーレットを
殺すと思った


映画『風と共に去りぬ』(1939年)が完成したとき、製作者デヴィッド・O・セルズニックは、「地球が回っているかぎり、GWTW(原題GONE WITH THE WINDの頭文字)はつねにどこかで上映されているだろう」と豪語したという。予言が的中したかどうかはともかく、少なくとも先年、その上映の継続が重大な危機に瀕したことは間違いない。ミネソタ州の白人警官による黒人男性暴行死(2020年6月)に端を発した「ブラック・ライヴズ・マター」運動が燃えさかるなかで、『風と共に去りぬ』の黒人表現のあり方が問題となり動画配信サービスが急遽停止される事態に立ち至ったのだ。

 
とりわけ注目すべきポイントは、アメリカ国内ばかりでなく、こうした動向を日本のテレビ・新聞も通常のニュースとしてリアルタイムで報道したことだ。すなわち、この作品をめぐる議論はたんにエンタメ業界のトピックにとどまらず、もっと広汎な政治・文化のテーマとして異国に暮らすわれわれも受け止めたわけで、いまさらながら『風と共に去りぬ』は映画史上の名作の位置づけを超えて、その存在自体が歴史的な事件だったことを証しているのではないか。

 
わたしはそんな見解に立って、ある大学で1年生の男女学生を対象としてメディアがテーマのセミナーを行った際に、かれらにあらかじめビデオなりで『風と共に去りぬ』を観てもらったうえで意見交換するという内容にした。もとより、この作品は南北戦争前後のジョージア州を舞台に、スカーレット(ヴィヴィアン・リー)の16歳から28歳までの生きざまを、レット(クラーク・ゲーブル)やアシュリー(レスリー・ハワード)との男女模様のもとで描いたものであることから、たとえ時代・場所が異なるにせよ、主人公と同じ年代のかれらがどこまで共感できるのかどうかを確かめてみたい意図もあった。

 
さっそく、おもだった意見を紹介しよう。やはり、現在のハリウッド映画の黒人表現とはギャップが大きいことにずいぶん驚かされたようだ。

 
「かつての黒人奴隷の姿を初めて知った。ほとんど動物扱い」(男子)
「黒人はひとがいいだけのバカな人間として描かれている」(女子)
「これが多文化共生の実際の光景なのかもしれない」(女子)
「黒人よりも、戦争で廃人になった白人たちのほうが怖かった」(男子)
「よその話ではない。日本のテレビで、白人とのハーフのキャスターばかりがもてはやされているのも、一種の白人至上主義だと思う」(男子)

 
スカーレットの生き方をめぐってはさかんに議論が闘わされた。ことによると、黒人奴隷の描かれ方以上にショッキングだったのかもしれない。

 
「こんな女性がいるのかとびっくりした。いまの私たちよりも自由」(女子)
「必死の思いでタラ農場へ帰ってきた彼女が、畑のカブをかじりながら『もう二度と飢えないでみせる』と誓う場面にあんまり感動して、ここで終わりかと観るのを止めてしまった。それが第一部で、第二部もあったとはいま知った」(女子)
「やばい女」(男子)
「登場人物がみんな理解できない。レットがスカーレットに向かって、アシュリーのことを『君にはあいつが理解できない』と言ったのがいちばんぴんときた」(男子)
「この映画を観たのは3回目。はじめは中学生のとき、私より年上のスカーレットの身勝手さに腹が立った。つぎは高校生のとき、スカーレットを取り巻く人物に興味が移った。自分はメラニーの性格に近いのかなって。そして今度、やっとスカーレットの喜びや悲しみが少しわかった」(女子)
「スカーレットが平気で男にビンタをくらわせるのに感心した」(女子)
「いまの映画よりも迫力があった」(男子)
「父といっしょにビデオを観た。『トゥモロー・イズ・アナザー・デイ』のラストシーンが呆気なくて不満だと伝えたら、父はここで終わるのがいいんだと応えた」(女子)
「最後にレットはスカーレットを殺すと思った。絶対に殺すと思った」(女子)

 
学生たちの自在な発言にわたしが余計な口をはさむまでもなかったが、ただ、この映画の黒人表現をめぐってつぎのエピソードだけは声を大にして伝えておいた。スカーレットの乳母マミーの役に扮したハティ・マクダニエルは、その演技により黒人として史上初のアカデミー賞(助演女優賞)を獲得し、授与式では盛大な拍手喝采を浴びて、涙ながらに「私の人種と映画界に恥じない存在であり続けたい」とスピーチした。その後、つぎの黒人俳優の受賞者(シドニー・ポワチエ)が出るまでには実に24年の歳月を要した意味でも、『風と共に去りぬ』は歴史的な事件だったのだ、と――。
 

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