アナログ派の愉しみ/本◎ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

還暦を過ぎて
マックス・ウェーバーを読む


還暦を過ぎて、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)を初めてひもとく。これまでの人生であくせくと渡りあってきたこの資本主義なるものの正体に、多少とも迫りたいと考えたからだ。

 
ウェーバーは、ハナから唯物史観の見解を意に介さない。ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」から始まる有名な説教を参照しながら、資本主義の精神を成り立たせた根底には、神の恩寵をわがものとするために現世での仕事を天職と見なすプロテスタントの倫理観が横たわっていたことに関心を集中させるのだ。

 
その内実を宗派ごとにつぶさに検証していく徹底ぶりには目を見張るが、ウェーバーの視野はおおむねヨーロッパとアメリカにかぎられる。アジアへの言及はただ1か所、宗教改革以前からキリスト教の修道士の禁欲には合理的な性格を帯びていたのに対して、東洋の僧侶は世俗から離れた神秘的な禁欲生活のもとにあったと指摘されているのみだ。ごく簡素な記述ながら、この個所を前後の文脈に沿って理解するなら、ウェーバーが定義する資本主義はアジアでは成り立たないとの結論になろう。

 
かつて世界がはっきりと東西に分断されていた時代には、日本も西側の資本主義陣営に属するとの見方にわたしも特段の疑問は抱かなかった。ところが、1991年のソ連崩壊とともに、東側の社会主義陣営が解体して、世界が東西という枠組みを失った21世紀の現在はどうだろう。GDP第2位の中国は資本主義なのか? ロシアは資本主義なのか? 韓国は資本主義なのか? ……と近隣諸国を眺めても、答えはそう明快ではなさそうだ。ということは、外側から見れば、日本だって必ずしも資本主義と映っていないのではないか。

 
まあ、もはやアジアに資本主義が成り立つかどうかを問うてみたところで意味はないかもしれない。世界経済がとうにリアルな世界を超えてヴァーチャルな空間までも席巻しているいま、むしろ問われるべきは、やみくもな暴走のようにも見える資本主義が向かうゴールのはずだ。その未来図について、ウェーバーはこんなふうに告げる。中山元訳で引用しよう。

 
この巨大な発展が終わるときには、まったく新しい預言者たちが登場するのか、それとも昔ながらの思想と理想が力強く復活するのかを知る人もいない。あるいはそのどちらでもなく、不自然きわまりない尊大さで飾った機械化された化石のようなものになってしまうのだろうか。最後の場合であれば、この文化の発展における「末人」たちにとっては、次の言葉が真理となるだろう。「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に達したのだと、自惚れるだろう」。

 
まだソ連も中共も出現していなかった時期の予言であることに思いを致すと、そのあまりにもブラックな洞察力に戦慄しないではいられない。ここに描かれているのは、まさに眼前の世界で繰り広げられようとしている光景ではないだろうか。そのなかで果たして、日本人は「新しい預言者」たりうるのか、それとも真っ先に「無にひとしい人」へと堕していくのか……。

 
他人ごとではない。わたし自身においても2巡目の暦に足を踏みだしたいま、みずから宗教と真摯に向き合い、その倫理観に立脚して歩いていくことの肝要を、ウェーバーは教えてくれているようだ。

 

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