アナログ派の愉しみ/音楽◎レスピーギ作曲『ローマの松』

「街道の女王」が
見つめた2300年の歴史


イタリアの作曲家、オットリーノ・レスピーギは「ローマ三部作」の交響詩をつくったことで名高い。それぞれは標題と解説を持つ四つのパートからなり、すなわち、第一作の『ローマの噴水』(1916年)は「夜明けのジュリアの谷の噴水」「朝のトリトンの噴水」「昼のトレヴィの噴水」「黄昏のメディチ荘の噴水」、第二作の『ローマの松』(1924年)は「ボルゲーゼ荘の松」「カタコンブ付近の松」「ジャニコロの松」「アッピア街道の松」、第三作の『ローマの祭り』(1928年)は「チェルセンセス」「五十年祭」「十月祭」「主顕祭」によって構成されている。

 
クラシック音楽のジャンルで、ひとりの作曲家がひとつの都市を題材としてこれだけの楽曲を送りだしたのは他に例がないばかりか、それらが世界各地のオーケストラの人気レパートリーとして定着していることは奇観とさえ言えよう。おそらく、こうした現象はひとえにローマが題材だったからで、他の大都市、たとえばパリやロンドン、ニューヨークであったとしても成り立たないだろうことを考えると、ローマはイタリアのみならず、人類の歴史にとって首都の地位にあることを表しているのかもしれない。

 
なかでも最高傑作とされる『ローマの松』は、あたかも絢爛たる音楽絵巻のようなつくりだ。はじめの「ボルゲーゼ荘の松」では、かつての貴族の庭園の松並木で子どもたちの遊び戯れる描写がにぎにぎしく開幕を告げ、ついで「カタコンブ付近の松」では、古代ローマの地下墓地でキリスト教徒たちのうたう聖歌がしめやかな葬送行進曲をなし、一転して「ジャニコロの松」では、青白い月光に照らされた丘で恋人たちが愛を囁きあい、夜鳴鶯(ナイチンゲール)が鳴き交わすという官能的な風景。そして、フィナーレの「アッピア街道の松」では、古代ローマの軍隊が地響きを立てて行進していくありさまを活写して壮大なクライマックスを築くのだ。

 
塩野七生は『ローマ人の物語』第10巻の「すべての道はローマに通ず」(2001年)のなかで、つぎのように書いている。

 
「ローマ人はアッピア街道を、『街道の女王』と呼んでいた。〔中略〕ローマ街道はどうあるべきかのモデルを、アッピア街道は指し示したからである。/まず第一に、軍団の敏速な移動を目的にした、軍用道路としての機能を充分に満足させるものでなければならなかった。/ローマは普通、制覇した地に占領軍を常駐することをしない。勝者の常駐は敗者との間に摩擦を産みかねないからだが、常駐はしない代わりに、何かことが起れば基地から移動させるやり方をとっていた。前三世紀の頃の軍団駐屯地は首都ローマだから、軍団の移動は、ローマから目的地までの行軍になる。なるべく早く、しかも安全に目的に着ける道の確保は、軍事上の課題でもあったのだ」

 
そうした課題を果たすため、全長8万キロにも達した街道は、中央に砂利や粘土の土台のうえに大きな石を敷きつめた幅4メートル強の車道(対向二車線)が設けられ、左右に排水溝と幅3メートルほどの歩道が並行するという、堅牢な基本設計のもとにつくられていった。その第一号のアッピア街道は、ブーツ型のイタリア半島のかかとの部分にある南端の街ターラントとローマを結ぶ交通の大動脈として、長い歴史のなかで盛衰はあったにせよ、着工から2300年あまりを経た今日でも史跡指定区間以外はアスファルト舗装が施されて機能しているという。

 
古代ローマにあってはポンペイウスやカエサル、ルネサンス期にはチェーザレ・ボルジア、イタリア統一運動ではジュゼッペ・ガリバルディ……と、それぞれの時代に野心を滾らせた英雄たちが軍隊を駆っていく姿を、この街道は目の当たりにしてきたのだろう。

 
いや、かれらだけではない。レスピーギが『ローマの松』を発表する直前、1922年にベニート・ムッソリーニの率いるファシスト党と黒シャツ隊がナポリからローマへと向かって政権を奪取したときも、アッピア街道は無言で見つめていたはずだ。作曲者の盟友でもあった指揮者アルトゥーロ・トスカニーニは、こうした事態に反発して祖国をあとにし、第二次世界大戦の終結後、アメリカでNBC交響楽団と『ローマの松』の録音を行った。そこでの「アッピア街道の松」の演奏はオーケストラが凄まじい唸りをあげ、癇癪持ちで有名だったトスカニーの激情が真っ赤に燃えさかっている。世界史の首都たるローマには輝かしい栄光と同時に、底知れぬ悲惨が刻み込まれていることを暴くかのように――。


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