アナログ派の愉しみ/音楽◎ラフマニノフ作曲『ピアノ協奏曲第3番』

アシュケナージの
ピアニズムが意味するもの


ロシア音楽を19世紀から20世紀へと橋渡しした作曲家、セルゲイ・ラフマニノフには四つのピアノ協奏曲があって、とりわけ有名なのは『第2番』(1901年)と『第3番』(1909年)だろう。どちらも噎せ返るほど濃厚な「ロシアの憂愁」を湛えて聴く者を陶酔へといざなうのだが、わたしが臍を噛む思いを禁じえないのは、歴代の大ピアニストが残した録音を振り返ってみると、リヒテルやルービンシュタインは『第2番』のみ、ホロヴィッツやアルゲリッチは『第3番』のみに留まっていることだ。もし前者の『第3番』、後者の『第2番』があったらファンは狂喜乱舞したに違いない……。

 
それだけに、双方のピアノ協奏曲を繰り返しレコードにしてきたウラディーミル・アシュケナージは奇特どころか、おそらく唯一無二の存在だろう。セッション録音にかぎっても『第2番』が3回、『第3番』が4回を数えるのだ。のみならず、ラフマニノフの手になる他のピアノのためのソロやアンサンブルの作品、さらには、指揮者として三つの交響曲をはじめとするオーケストラ作品もことごとく録音しているから、その思い入れのほどはもはや常軌を逸しているとさえ言えるかもしれない。

 
1937年、旧ソ連のゴーリキー市に生まれたアシュケナージは幼くしてピアノの才能を発揮して、モスクワ音楽院卒業ののち、1962年、チャイコフスキー国際音楽コンクールでイギリスのジョン・オグドンと優勝を分けあったのをきっかけ本格的な活動をスタートさせた。音楽評論家・吉田秀和は、その新進ピアニストについて『ステレオ芸術』(1969年3月号)の記事でつぎのように書いている。当時、ベルリン在住の筆者がレコードショップの店員に勧められ、アシュケナージが弾くバッハとショパンを聴いてみたときの印象だ。

 
「アシュケナージというピアニストは、並大抵の才能の持ち主ではないが、何よりもまず彼の良いのは、音であり響きである。〔中略〕肩や腕に力を入れ、堅くなってはいけないという教えの、彼は模範的ピアニストである。だから、これは歌手でいえば、歌う前から――というのもおかしいが――すでに豊麗な音、声をもっているみたいなものであり、女性でいえば、歩こうと坐ろうと、姿といい、顔かたちといい、難のつけどころのない美人、それも豊満な美人、グラマー・ガールのようなものである」

 
いつも生真面目な吉田が「豊満な美人、グラマー・ガール」などと書きつけるのは珍しいが、それだけ演奏の外面的な効果がきわだっていたのだろう。と同時に、わたしはこの譬えがいみじくもアシュケナージというピアニストのあり方の根っこを言い当てているように思えるのだ。

 
ファミリーネームの「アシュケナージ」がたんなる固有名詞ではなく、古代以来のユダヤ人のディアスポラ(民族拡散)において、おもに東ヨーロッパの各地に定住した人々とその子孫を指すことは周知のとおりだ。かれらは長い年月にわたってユダヤ人としてのアイデンティティを守りとおしながらまったく別種の社会に生きてきたわけで、そうした祖先の血を受け継いだピアニストが、吉田秀和の評言を借りれば、何よりもまず音と響きを磨きあげてアピールしたのは当たり前ではないのか。なぜなら「豊満な美人、グラマー・ガール」こそ、宗教や文化の違いを乗り越えて不特定多数に通用する価値だから。

 
そして、ラフマニノフもまた、19世紀ロシアのユダヤ系貴族のもとに生まれ、やがて共産主義革命によって祖国を追われ、さらにはナチス・ドイツの台頭とともにヨーロッパからも逃れざるをえず、アメリカ大陸に移り住むという運命を辿ったことを考えるとき、アシュケナージがひときわ強い共感を抱いたのもごく自然だったろう。

 
そんなかれのレコードのうち、最も惹かれるのはユージン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団と組んで1975年につくった『ピアノ協奏曲第3番』だ。かつてラフマニノフ本人がソリストとしてこの曲を録音したときにもタクトをとったオーマンディは、ユダヤ系ハンガリー人の出自だから、いわば作曲家、ピアニスト、指揮者ともに「アシュケナージ」という三者が世界に対して突きつけた、あたかも音楽の挑戦状のようにわたしの耳には聴こえるのである。どこまでも豊麗な音と響きによって、極彩色の「ロシアの憂愁」がせめぎ寄せてくる快感に酔い痴れながら――。
 

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