アナログ派の愉しみ/本◎江戸川乱歩 著『芋虫』

ほんとうの
生きた屍にしてしまいたい


反戦をテーマとする作品は、何よりもまず、人類が生みだした巨悪と向きあうイマジネーションのあり方が問われるだろう。この前の記事で取り上げたトランボ監督の映画『ジョニーは戦場へ行った』(1971年)では、青年ジョーが戦争によって肉のかたまりと化したという設定に立って、そのベッドに縛りつけられ虚無の闇をさまよう姿が、いつしか人類の罪悪を一身に背負った十字架上のイエス・キリストと重なっていく。強靭な説得力には圧倒されてしまうのだが、ただし、必ずしもそれが唯一無二の帰結ではあるまい。実のところ、ほぼ同様の設定から出発して、江戸川乱歩は短篇小説『芋虫』(1929年)でまったく別の帰結に辿りつくというイマジネーションを発揮しているからだ。

 
こちらの主人公は須永中尉。日露戦争に出征して重傷に見舞われ、やはりすべての手足を失い、また話すことも聞くこともできなくなった(ただし、青年ジョーの場合と異なり両眼だけは無事だった)ものの、そうした不運と引き換えに国家から名誉の金鵄勲章を授与され、やがて衛戍病院から退院すると、元上官の将軍の厚意で広大な邸宅の離れ座敷をあてがわれ、妻の時子とふたりで暮らすことになった。つまり、頭部と胴体だけの肉のかたまり(この作品では畳の上でくるくる回る「肉ゴマ」と形容されている)と化したあとも、従来どおりの人格を保持したまま世間に居所を得たばかりか、むしろ一般の人々よりもずっと栄誉と家計に恵まれた境遇にあったと言えよう。

 
そこで、何が起こったか。妻の時子が外出して帰ってくるたび、須永中尉は口にくわえた鉛筆で紙に「ドコニイタ」と書いて嫉妬の情をあらわにする。そんな相手の不機嫌をなだめるために、妻は手っ取り早い行動に出るのがつねだった。

 
 彼女はいきなり夫の上にかがみ込んで、ゆがんだ口の、ぬめぬめと光沢のある大きなひっつりの上に、接吻の雨をそそぐのであった。すると、癈人の眼にやっと安堵の色が現われ、ゆがんだ口辺に、泣いているかと思われる醜い笑いが浮かんだ。時子は、いつもの癖で、それを見ても、彼女の物狂わしい接吻をやめなかった。それは、ひとつには相手の醜さを忘れて、彼女自身を無理から甘い興奮に誘うためでもあったけれど、またひとつには、このまったく起ち居の自由を失った哀れな片輪者を、勝手気ままにいじめつけてやりたいという、不思議な気持も手伝っていた。

 
そう、肉のかたまりの夫と脂ぎった三十女の妻の、両者をつなぎとめるものはもはや性欲の発散だけであり、しかもそれが世間に明かすことのできない禁断の営みだけにいっそう快楽の炎を燃え立たせるのだった。興奮のあまり「肉ゴマ」と化してくるくると回る夫と、その手足のない図体にすがりついて嗚咽をこぼす妻――。ところが、ある日のこと、妻のあくまで健康な振る舞いに腹を立てたのか、夫の目つきに何やら非難がましい色を見て取ると、妻は逆上して指先を相手の両眼にあてがい、夫のたったひとつ残っていた外界への窓を力任せにつぶしてしまう。

 
時子はわれに返ると、おのれの過失にうろたえて夫に謝罪するのだが……。

 
 彼女の心の奥の奥には、もっと違った、もっと恐ろしい考えが存在していなかったであろうか。彼女は、彼女の夫をほんとうの生きた屍にしてしまいたかったのではないか。完全な肉ゴマに化してしまいたかったのではないか。胴体だけの触覚のほかには、五官をまったく失った一個の生きものにしてしまいたかったのではないか。そして、彼女の飽くなき残虐性を、真底から満足させたかったのではないか。不具者の全身のうちで、眼だけがわずかに人間のおもかげをとどめていた。それが残っていては、何かしら完全でないような気がしたのだ。ほんとうの彼女の肉ゴマではないような気がしたのだ。

 
そして、当の夫は、妻が目を離したすきに「ユルス」の文字を紙に書き残して、住まいの離れ座敷の梯子段を転がり落ち、巨大な芋虫のごとく不自由なからだを引きずりながら記憶にあった裏庭の古井戸へと向かっていく。わが身を沈めるために……。

 
最後の場面で青年ジョーは静謐の闇に閉ざされたとするなら、須永中尉のほうは喧騒の焔に没したと言えるだろう。いや、かれひとりの話ではない。ここに描かれているのは、時子もおそらくはみずから望んで、夫と妻ともどもに阿鼻叫喚の奈落の底へとまっさかさまに転落していった地獄図だ。人類が生みだした戦争という悪は、もはや性にまつわる加虐・被虐の領域を超えた先の、ぎりぎりの実存的な袋小路までもたらしたのではなかったか。もしそうした乱歩のイマジネーションのあり方が説得力を持つならば、この『芋虫』もエロ・グロナンセンスのキワモノにとどまらず、レッキとした反戦の文学作品として成り立っているはずである。


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