アナログ派の愉しみ/映画◎フリッツ・ラング監督『M』

だれもが追う立場になり
追われる立場になる社会の恐怖


 ちょっと待って あと少しだよ
 もうすぐ 黒衣の男がやってきて
 よく切れる大きな 肉切り包丁で
 お前を ひき肉にするのさ

 
あどけない女の子がそんな歌をうたって、フリッツ・ラング監督の『M』(1931年)は幕を開ける。トーキー初期のモノクロームの映画がいまだに観る者を戦慄させるわけは、このシーンに集約されていると言ってもいいだろう。ベルリン市内のかぎられたエリアで少女を狙った連続殺人事件が起こり、親たちが恐慌をきたしているのを尻目に、娘のほうは無邪気に血なまぐさい歌詞を口ずさんで遊んでいる。すぐ近くから犯人が様子を窺っているかもしれないのに、それを承知のうえで誘っているかのように……。加害者と被害者の領域があやふやな、のっぺらぼうの気配がわれわれを不安の底へ落とし込んでいくのだ。

 
犯行の手口は単純だ。街なかにひとりでいる少女に声をかけ、キャンディーや風船を買い与えてから人目のない場所で殺害するというもので、8ヵ月間に9人が犠牲となり、さらなる犯行予告の手紙が新聞社に届く。世論の叱責を浴びながら警察は捜査の網をやみくもに暗黒街に広げて、身分証明証を所持していない連中を片端から拘留して取り調べていく。一網打尽のこうしたやり口に地下組織のヤクザや娼婦たちは進退窮まり、わが身を守るためにみずからの手で少女殺しの犯人を捕まえようとの挙に出た。

 
それまで画面に現れるのは犯人の『ペール・ギュント』組曲の一節を口笛で吹く後ろ姿だったのが、ついに素顔を見せる。どう表現したらいいのだろう、怪優ピーター・ローレが扮した中年男の表情は精神の闇を示していかにも禍々しい。かれが口笛を吹いてふたたび少女に接近したところを、ホームレスらの監視ネットワークが捉えて、男のコートの背中にチョークで殺人者(Mörder)を示す「M」の目印をつけると、暗黒街の連中が大挙して追いつめていく。少女を追っていた男の立場が入れ替わり、どこまでも追われて、追われて、追われていくうちに、いつしかわれわれもその恐怖をともにしている。そして、ついにかれらの手中に落ちて廃工場で私設裁判にかけられた男は、こんなふうに自己弁護するのだ。

 
「お前たちはどうだ。金庫を破ったり家に忍び込んだりする仕事に誇りを持っているだろう。そのくせ、やめようと思えばいつでもやめられる。もし他に働き口があってカネを稼げるなら。でも、じゃあ僕はどうしたらいい? 僕のなかには呪われた奴が潜んでいて自分じゃやめようがない。世間を騒がせている事件は一体、自分の仕業なのかどうか、何も覚えていない。からだのなかで誰かが『やれ!』と叫ぶのに従っただけだ。とても耐えられない、他に仕方なかったんだ」

 
せめてもどうか自分を警察に引き渡して正規の裁判を受けさせてほしい、と哀願する男に向かって、暗黒街の男も女も怒気を発して、お前に殺された娘たちの母親の気持ちはどうなる、精神障害を理由に罪を逃れることは許さない、とあくまで死刑を宣告する……。

 
これまで法に裁かれてきた立場が裁く立場にまわり、正義の名のもとに虐げられてきた立場が虐げる立場にまわり、ひいては善と悪が、真実と虚偽がないまぜになって、そのあやふやなありさまを眺めているこちらも眩惑に襲われる。人類が営々と築いてきた社会秩序の化けの皮が剥がれて、なんのことはない、のっぺらぼうのアナーキズムだけが居据わっていたのだ。それはまさしく、第一次大戦の敗北と世界大恐慌の混乱からヒットラーの第三帝国が出現してくる前夜のドイツの精神状況だったろう。

 
いや、果たしてそうか。人類が辿り着いた今日のネットワーク社会こそ、だれもが背中に目印の記号を割り振られ、おたがいに監視して監視されて、追う立場になり追われる立場になり、裁く立場になり裁かれる立場になり、死刑を宣告する立場になり宣告される立場になり、とめまぐるしく堂々巡りを繰り返しながら、もはや世界全体が巨大IT企業に支配されたのっぺらぼうと化しつつあるのではないだろうか。映画『M』はすでに1世紀近く前にこの事態を予見していたのだ。そして、われわれはと言えば、冒頭の場面の少女と同様、自分が置かれた危機から目をそらして「お前をひき肉にするのさ」と自嘲することしかできずにいるのかもしれない。
 

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