アナログ派の愉しみ/本◎水木しげる 著『のんのんばあとオレ』

恐ろしげなおばあさんが
引き受けてきた役割とは?


かねて不思議に感じてきたのは、洋の東西を問わず、フォークロア(民間伝承)で魔法使いや鬼婆として恐ろしげな存在感を発揮するのはなぜかおばあさんばかりで、おじいさんにはお呼びがかからないことだ。もしそうした属性が長生きによって培われるのなら、何も男女の性別には関係しないように思われるのだけれど。

 
そんな疑問に単刀直入の回答を与えてくれるのが、マンガ家・水木しげるの『のんのんばあとオレ』(1977年)だ。昭和初期に鳥取の境港で育った幼少年時代を描いた自伝で、これが滅法面白い。もともと宍道湖をはさんで隣りあう島根は出雲の国で神話・伝説の宝庫だし、こちら側の伯耆の国も山岳信仰で有名な大山が聳えているといった具合で、日常と非日常の境があいまいな土地柄だったらしい。そこで幼い「オレ」は近所の「のんのんばあ」と親しく交わる。少し前につれあいと死に別れてから物乞いのように暮らすなか、しょっちゅうやってきてはいつもお化けの話を聞かせてくれたという。たとえば、こんなふうに。

 
 むかしのフロのおけは木でできていた。
 長いあいだ使っていると、木が腐ってくる。そこへあかがたまって、ぬるぬるしてくさくなる。
 そうすると、のんのんばあは、たのまれもしないのに、フロ場の掃除をする。これが半日もかかる大がかりなものなのだ。
 どうしてそんなに掃除をするのかとオレが聞くと、この腐った木にたまるあかを食べに「あかなめ」という妖怪が来るといけないからだと、のんのんばあは真剣に答えた。
 「あかなめ」は小童(小さい子ども)のかたちをした赤い色の化け物で、夜なか、だれもいないときにぺろぺろとあかをなめるのだ。そうなると、「あかなめ」だけではない、妖怪は妖怪を招くから、さまざまな妖怪が家に住みつくことになる。
 こんな話をしながらのんのんばあはフロ場掃除をするから、オレもつられて真剣になって、フロおけの掃除を手つだった。

 
果たして、その夜、オレがひとりで風呂につかっていると、入り口の戸がミシミシと鳴って勢いよく頭の上に倒れてきて……。この「あかなめ」にはよほどびっくりさせられたようで、水木は後年、『ゲゲゲの鬼太郎』に印象的な役まわりで登場させている。のんのんばあは他にも、天井なめ、海坊主、子取り坊主、キツネとタヌキ、河童、サザエオニ、野寺坊、白うねり、家鳴り、ぶるぶる、べとべとさん……といった連中について語り、身のまわりには妖怪がひしめいていることを教えていった。

 
こうした成り行きを眺めるにつけ、なるほど、衣食住の細々とした習いと異界の神秘をダイレクトに結びつけられるのは女性ならではであり、こうした感受性が長い年月積み重なることで日常とも非日常ともつかない世界が目の前に開けていったと理解できる。それはたとえ恐ろしげであっても、同時にこのうえなく温かい包容力に満たされていたのではないだろうか。のちにオレが尋常小学校五年のとき、のんのんばあがなかば飢え死にして世を去ったことについて、つぎのような文章が書き留められているのである。

 
 「転生」ということばがあるが、それは、亡くなった人の心が、ほかの人に宿り、生きつづけることだとすると、オレはいまでも、のんのんばあの心が、オレに宿り生きつづけているような気がしてならない。
 オレはまた次のオレの「転生者」に「妖怪ってなんだろう」と伝えるだろう。そのようにして何百年もたったとき、きっと妖怪の正体もわかるようになっていることだろう。そして、いまだに、たえず「妖怪ってなんだろう」という疑問につきまとわれているのも、のんのんばあの心のせいなのかもしれない。

 
ここで水木が喝破してみせたものこそ、魔法使いや鬼婆のおばあさんの正体なのではないか。彼女たちは古来、世代を超えて生きとし生けるものの心と心をつなぐ役割を引き受けてきたのだ。それにしても、とわたしは首をひねる。日本が世界に冠たる長寿社会を築いたいま、こうした恐ろしげなおばあさんたちは一体、どこへ行ってしまったのだろう?
 

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