アナログ派の愉しみ/映画◎キャロル・リード監督『第三の男』

古典的名作の
だまし絵を解き明かす


ミステリーの小説や映画とは、だまし絵のようなものだと思う。たとえば、画家エッシャーの作品が閉じられた階段や水路の「永久運動」を描くように、表面上はきちんと因果関係が成り立っていると見えながら、いつの間にか読者や観客を思いもかけない迷宮の深奥へ誘い込み、しかもそのトリックの仕掛けを悟られずにだましとおすことができたら大成功というわけだろう。偉大なミステリーは必ずや偉大なだまし絵のはずだ。そうした理解のうえで、ミステリー映画の古典的名作とされるキャロル・リード監督の『第三の男』(1949年)をめぐって、わたしなりにだまし絵の解明にトライしたい。

 
物語の舞台は、第二次世界大戦直後のウィーン。戦火による荒廃も生々しく米英仏ソの分割統治下にあったこの国際都市に、アメリカから西部劇作家のホリー(ジョゼフ・コットン)がやってくる。20年来の友人ハリー(オーソン・ウェルズ)に呼び寄せられてのことだったが、到着したとたん、ハリーが交通事故死したと知らされ、葬儀で旧友の恋人の女優アンナ(アリダ・ヴァリ)と出会う。ホリーはハリーの最期に疑念を抱き、当地の治安をになうイギリス憲兵隊長の制止を振り切って独自の調査に乗りだし、交通事故の現場に「第三の男」の存在があったらしいことを突き止める。やがて、その謎の人物が姿を現すと死んだはずのハリーだった……。

 
こうしてストーリーは矢継ぎ早に謎が謎を呼んで展開していく。そこに何食わぬ顔つきで、あたかも登場人物たちの自然な振る舞いのように取り込まれただまし絵の仕掛けを、3つのポイントから眺めてみよう。

 
【その1】
主人公である作家ホリーが度を超しておめでたいこと。古今東西の名作ミステリーのなかでこれほど鈍感な探偵役もいないのではないか。本人は正義感から真相究明に立ち向かっているつもりだが、ひとりよがりの行動がかえって事態に混乱をもたらし、美貌のアンナには横恋慕してまとわりつき、地元の文化サークルで講演を行えばしどろもどろの体たらくで聴衆に呆れられる始末。そんなマヌケな男の背後からわれわれはストーリーを追っていくところに、映画制作者のしたたかな計算が働いている。

 
【その2】
ホリーが再会したハリーと遊園地の大観覧車で語りあうシーンはよく知られていよう。オーソン・ウェルズが扮したハリーが画面に現れるのは、長さ100分の映画のなかでわずか5分ほどにもかかわらず、強烈な存在感が他の出演者を圧倒している。そして、みずからの闇商売の稼業を言いつくろって作中随一の名言を吐くのだ。「イタリアではボルジア家の支配で陰謀やテロがはびこったが、ルネサンスの芸術が誕生した。スイスでは500年間の民主主義と平和があったが、何を生んだ? 鳩時計だけさ」――。これはもともと脚本にはなく、ウェルズ自身が思いついたとも、チャップリンが教えたともいわれる伝説的なセリフだが、よく考えてみるとおかしい。スイスは中世以来の中立政策のもとで秘密主義の銀行業をつくりだし、世界の地下経済ネットワークの要の地位を手にして、おそらくはハリーだって不法なカネをそこに託していたはずだ。子どもだましの鳩時計の譬えが説得力を持ったのは、おめでたいホリー(とその背後のわれわれ)だけだろう。

 
【その3】
最大の仕掛けは、有名なラストシーンだ。ホリーはハリーの生存を憲兵隊に伝えたばかりか、地下水道での追跡劇の果てにおのれの手で旧友を銃殺してしまう。かくて、今度こそ嘘偽りのないハリーの葬儀に列席したあと、冬枯れの並木道にたたずんでアンナを待ち構えていると、相手は一瞥もくれずに通りすぎていく。史上最高の「フラれ」場面と見なされてきたけれど、本当にそうだろうか? アンナはチェコ難民の出自で偽造パスポートを使ってウィーンに入り込んだうえ、堂々と劇場で女優として活動してきた。そんな彼女が、水増しペニシリンの密売にいそしむハリーのような小悪党に入れあげ、当然の末路を辿ったあとも愛情を貫くとはとうてい思えない。逆ではないか。大戦後の無惨な状況下で生き抜くために暗躍したのはアンナのほうであり、愛人のハリーは手先にすぎず、ことが露見したからにはトカゲの尻尾切りよろしく、おめでたい探偵役を操って消し去ったと考えるとずっと自然だろう。ハナからホリーの姿など眼中になかったのである。

 
どうだろうか。わたしの解読の当否はともあれ、こうした巧みなだまし絵の仕掛けがあってこそ、『第三の男』は70年以上にわたってミステリー映画として「永久運動」を持続していることは間違いない。
 

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