アナログ派の愉しみ/映画◎志村 喬 主演『男ありて』

これこそ『七人の侍』の
主人公の後日譚ではないか?


丸山誠治監督の映画『男ありて』(1955年)については、ノンフィクション作家・澤地久枝が著した志村喬の評伝にタイトルが用いられ、本書中には野球のユニフォームをまとった志村のスチール写真も掲載されていたから、かねて興味を持っていたものの、これまで実見におよぶ機会がなかった。そうしたところ、先年、東京・京橋の国立映画アーカイブで「生誕100年 映画俳優 三船敏郎」企画が開かれた際にこの作品も上映されて、わたしもやっと鑑賞することができたのだ。

 
あのギョロ目に不敵な光沢を宿した志村喬という俳優に、プロ野球の監督という役柄は似つかわしいと思えないこともあって、そのいぶし銀の演技に感心しつつも、率直に言って、それほど心情を揺さぶられるドラマではなかった。1時間49分の上映の結びにエンドマークが映し出され、明るくなった場内の席を立ち上がって、まあ、可もなく不可もなく、と納得しかけてから、いや、待てよ、と考え直した。ことによると、これはかねてわたしの胸中にわだかまっていた疑問に対する回答だったのかもしれない、と――。

 
ストーリーはざっとこんなふうだ。野球ひと筋の人生を送ってきて、目下、ペナントレース最下位のスパローズの監督をつとめる島村は、志村の実年齢とほぼ同じ51歳という設定だ。病気がちの妻と、そろそろ結婚適齢期の娘と小学生の息子がいるが、これまで家族を省みることなく子どもたちも父を疎んじている。また、スパローズでも世代変わりが進むにつれ、若い選手たちとのあいだに軋轢が生じてバラバラになりかねないところを、主将の矢野(三船)が懸命に取りまとめているという具合。いつしか引退も考えはじめた矢先、島村は試合中に審判の判定に激高して暴力をふるい1か月の出場停止処分を受け、その間に監督代理となった矢野の采配により、チームはにわかに勢いを取り戻して最下位から脱する。島村は謹慎が解けると、急死した妻の葬儀もそこそこに娘の制止を振り払って球場へ向かい、負傷した捕手の代わりにみずからキャッチャーマスクをかぶって勝利を手中にする。そして、まわりの祝福に包まれながら、かれは球団社長に辞表を差し出し、矢野らに向かって「実際、私は何も残さなかった」と訣別を告げ、ひとり妻の墓へ赴くのだった……。

 
さて、わたしの長年におよぶ疑問とはこうである。志村は、あの黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)では、山間の村人の懇願により浪人をリクルートして野盗集団との対決に臨む頭領の島田勘兵衛を演じた。クライマックスの土砂降りのもとでの激闘のすえ、がむしゃらな菊千代(三船)らの討ち死にと引き換えに敵を殲滅して、村に平和が戻ったあとに、生き残った仲間に「勝ったのはわしたちではない、あの百姓たちだ」とつぶやいてエンドマークとなる。あまりにも見事なオチなのだけれど、じゃあ、勘兵衛はそんな諦観を抱えて残りの人生をどこでどうやって送るのだろうか? 完全無欠の人格に過ぎて後日譚が像を結ばないのだ。

 
そこで、ふいに閃いたのは、『七人の侍』の勘兵衛ののちの姿こそ、その翌年に公開された『男ありて』の島村ではないか、と。むろん時代劇と現代劇の違いはあるにせよ、続けざまに制作されたタイミングといい、島田と島村の姓の類似といい、わたしには偶然以上の符合と見て取れる。つまり、こういうことだ。戦闘集団のリーダーとして、勘兵衛はつねに沈着冷静で組織をまとめあげて勝利に導き、島崎のほうは感情過多で組織に混乱を招き敗北を積み重ねて、一見両者は正反対だけれど、ひと皮むいてみれば、しょせん肩肘張って生きてきた男のオモテとウラの顔ではないか。その意味で、勘兵衛は村を立ち去ったのち、故郷に舞い戻って身内の顰蹙を買い、島村と同様に泣きじゃくりながら、命を落とした同僚の菩提を弔うという成り行きもあながち不自然ではなかろう。

 
澤地久枝の著書によると、志村はこの『男ありき』の映画化が危ぶまれていることを知って、先に黒澤監督のもとで撮影に半年をかけた『生きる』(1952年)の出演料を投じてみずから原作料を支払おうとしたらしい。結局、東宝が引き受けてことなきを得たが、かれは主人公への思いを「男の仕事というものは、実際きびしいものだ」と口にしたというから、おそらくオモテの勘兵衛より、ウラの島崎のほうにずっと共感を覚えていたのだろう。かくして、この映画が名優・志村喬の最後の主演作となったのである。
 

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