アナログ派の愉しみ/本◎ガルシア=マルケス著『予告された殺人の記録』

ラテンアメリカ文学が
忠臣蔵のミステリーを解き明かす


ラテンアメリカ文学の奇才、アルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスは短篇集『汚辱の世界史』(1935年)のなかで「傲慢な式部官長」として吉良上野介を取り上げている。かれによれば、浅野内匠頭が刃傷沙汰を起こしたのは上野介の沓(くつ)の紐を結び直すように命じられたのがきっかけであり、切腹を申し渡された内匠頭は腹を十文字にかっさばくと臓腑を取り出し、大石内蔵助が介錯して首を斬り落としたのであり、内蔵助以下47人の家臣たちは森のなかの神社で主君の仇討ちを誓ったのであり、ついに吉良邸へ討ち入った際には激闘のなかで内蔵助の子息・主税ら9人が落命したのであり……と、およそ忠臣蔵のストーリーとは似て非なる内容になっている。

 
ただし、そうしたボルヘス一流の粉飾を凝らしながらも、赤穂浪士の企てについて「彼らは復讐を願っていたが、復讐は彼らにとって夢のまた夢、とても手の届かないことに思えたにちがいない」(中村健二訳)と述べている点は、わたしも見解を同じくする。まったく不可解千万だ。敵対する吉良上野介サイドだけではない、世間一般がかれらの一挙手一投足に目を光らせるという衆人環視のもと、まさに夢のまた夢、とても手の届かないはずのテロルをどうして成功させ、永遠の美談が成立したのか? そのミステリーにひと筋の光明をもたらしてくれるのが、同じくラテンアメリカ文学の巨匠、コロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』(1981年)だ。

 
この中篇小説は、マルケスの故郷の町で実際に起こった事件にもとづくという。ふいに町に姿を現した金持ちの伊達男が、養豚業を営む一家の末娘を見初めてプロポーズし、盛大な結婚式を挙げる。ところが、初夜の床で娘がヴァージンでなかったと知るなり即座に実家へ返した。兄たちが問いただすと、娘は自分の操を奪ったのは近所の牧場を営む青年だと答える。報復のために兄たちは酒場でしこたま酒を煽り、顔見知りの青年の殺害を公言して、町じゅうに知れ渡っていたにもかかわらず、翌朝、兄たちはだれに妨げられることもなく屠殺用ナイフで青年をメッタ刺しにする……。それから20年あまり経って、「わたし」は当時を知る人々に改めてインタヴューしながら事件を再構成していく。

 
そこに示された洞察はたんに南米の僻村のできごとにとどまらず、太平洋を隔てた極東の島国の復讐劇にも通じるものと思えるのだ。ついては異例なやり方ではあるけれど、試みに『予告された殺人の記録』(野田文昭訳)からいくつかの個所を、登場人物の名前のみを忠臣蔵のそれに差し替えて抜粋してみたい。

 
 浅野内匠頭は、ほとんどためらわずに、名前を挙げた。それは、記憶の闇の中を探ったとき、この世あの世の人間の数限りない名前がまぜこぜになった中から、真っ先に見つかったものだった。〔中略〕かれがなにげなく挙げたその名は、しかし、はるか昔からすでに宣告されていたのである。「吉良上野介だ」かれはそう答えた。

 
そもそも発端となった松の廊下に加害者と被害者の構図など存在しなかった。すべては情緒不安定な人物の気まぐれから起こり、だからこそ神話的な必然性を帯びて関係者ばかりでなく世間一般も呪縛したのではないか。

 
 しかし、どうやら大石内蔵助は、人に見られず即座に殺すのに都合のいいことは、何ひとつせず、むしろ誰かに犯行を阻んでもらうための努力を、思いつく限り試みたというのが真相らしい。だが、その努力は実らなかった。

 
祇園の一力茶屋で痴態を繰り広げてみせたところで、吉良サイドや世間一般が欺かれるはずもない。たとえ大石内蔵助と同志たちがテロルの回避を目論んだとしても、もはやいかんともしがたい構図が組み上がっていたと考えたほうが合理的だろう。

 
 半喪服を着たその女は、鉄の縁の眼鏡をかけ、髪は黄色がかった灰色だった。〔中略〕窓辺のその牧歌的な構図の中にいるのを見たとき、わたしはその女性が、自分が思っていた彼女だとは信じたくなかった。なぜなら、人の一生が、三文小説そっくりの結末を迎えるのを、認める気になれなかったからだ。しかしそれは彼女だった。悲劇から23年後の瑤泉院さま(浅野内匠頭夫人)だったのだ。

 
注釈を加えるのは無粋というものだろう。こうした現実認識から、血なまぐさい暴力沙汰が美談へと転じていく道のりがはじまった……。
 

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