アナログ派の愉しみ/映画◎勝新太郎 主演『座頭市あばれ火祭り』

悪役はもはや
絶滅危惧種である


映画やテレビで時代劇の凋落が言われてもう久しいけれど、大きな理由は悪役がいなくなったことではないか。そんなふうに考えたのは、アメリカのビデオ・レーベル「クライテリオン」が座頭市の全集を出したのを機にすべての作品を見通したからだ。

シリーズの第1作『座頭市物語』(三隅研次監督)は1962年制作。勝新太郎によって時代劇に初めて登場した盲目のヒーローはこのとき、天地茂扮する平手造酒とほとんど恋愛のような交わりの果てに対決して斬り伏せる。以後、実兄の城健三郎(若山富三郎)や、平幹二朗、成田三樹夫、佐藤慶、三国連太郎、近衛十四郎……といった錚々たる敵役を相手に剣戟シーンの盛り上げを図るが、やがて座頭市が輝きを増すにつれて人材不足が露呈していく。

第20作『座頭市と用心棒』(岡本喜八監督、1970年)ではなんと、黒澤明監督が世に送り出した三船敏郎の用心棒を起用するという禁じ手にもおよび、興行的には成功したものの、ともにヒーローのふたりは生死のやりとりができず決闘中にいきなり刀を収めてしまう結果に。

こうして、つぎの第21作目『座頭市あばれ火祭り』(三隅研次監督、1970年)となり、勝は新境地をめざして脚本にも取り組む。敵役に迎えられたのは仲代達矢だが、おそらく脚本のせいだろう、なんのために座頭市をつけ狙うのか意味不明のままあっさり討たれる。仲代はやはり、三船の用心棒のライヴァルのほうが適任だ。ところが、この作品にはもうひとり、盲目の闇公方なる黒幕が登場する。

この不気味な人物に扮した森雅之は、『安城家の舞踏会』(吉村公三郎監督)、『羅生門』(黒澤明監督)、『浮雲』(成瀬巳喜男監督)などの名演技に見られるとおり、気品をまといながらだらしない男の役をやらせたら右に出る者がないけれど、そんな軟派の俳優が意外にも凄まじい悪の魅力を発散させたのだ。勝もよほど歓喜したのか、闇公方との絡みの場面が野放図なまでに拡大していき、ついに座頭市はあっと驚く空前絶後の技を繰り出して斃す……。

私見ではこの作を最後のピークとして、悪役の払底を補えないままシリーズは尻すぼみとなり、全25作をもって幕を閉じる(のちに、勝新太郎自身から北野武までの手になる単発のリメークあり)。同じ時期に山田洋次監督『男はつらいよ』のほうは、渥美清扮するフーテンの寅さんの恋の相手となるマドンナ役で話題をつくりながら順調に回を重ねていったのとは対照的だ。つまりは、美女よりも悪役のほうがずっと稀少なのだろう。もはや絶滅危惧種と言うべきか。

もしこれから時代劇の本格的な再興をめざすなら、イケメンなんぞの起用ではなく、しっかりと悪役を育成することが必要条件だろう。それは何も芸能の世界にかぎった話ではないかもしれない。今日、政界や財界を眺めたところで悪役らしい悪役の不在が日本のエネルギーを削いでいるのではないか。世間のぬるま湯にカツを入れ、未来に向けての座標軸を照らすためにも、健全な悪役(言葉の矛盾だろうか?)の復権こそが待たれる!

いや、熱弁をふるっている場合ではなかった。かく言うわたしの鏡に映る顔つきも、この歳にしてとりとめなく、およそ悪役の面構えからほど遠いのはどうしたわけだろう。


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