アナログ派の愉しみ/映画◎稲垣 浩 監督『手をつなぐ子等』

子どもたちにとって
大切なのは「首から下」の交流だ


この映画を観て感動しないでいることは難しいだろう。青空の下の卒業式のあと、子どもたちが集まって手と手を取り合うラストシーンでは、わたしはいつも込み上げる嗚咽に身悶えしながら、しかし、同時に頭の片隅を疑問がかすめるのだ。本当に、こんな学校がありえるのだろうか? と。1948年(昭和23年)に公開された稲垣浩監督の『手をつなぐ子等』は、1937年(昭和12年)から3年間にわたる大阪の尋常小学校を舞台としたものだ。この双方の年に留意するべきだろう。すなわち、映画自体が世に現れた時点と、そこに描かれたドラマの時点とのあいだに、1945年(昭和20年)の日本の敗戦がはさまっているからだ。

 
盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発して、声高に国民精神総動員が叫ばれるようになったその年、小さな洋服店の一人息子カンタが4年男子の学級に転校してくる。「特異児童」のかれは読み書きや簡単な計算もおぼつかないため、他所では相手にされなかったものを、父親が出征してしまい、残された母親(杉村春子)の懇願によって、この学校の松村訓導(笠智衆)が引き受けたのだ。松村は教師の立場で、カンタを迎えるにあたって学級全員の義侠心を求め、優等生のケンジに勉強を手伝わせた。

 
「ボク、学校、面白うてかなわん」

 
カンタがそう宣言して母親を涙させるまでに時間はかからず、毎朝校門が開くのを待っていちばんに登校するようになる。ところが、翌年、腕白なガキ大将のヤマキンが転校してくると事態が一変した。悪童どものグループをつくって、さっそくカンタをからかったりいじめたりして、そのあまりの無茶ぶりにケンジが決闘沙汰を引き起こしたりしたものの、松村訓導は周囲の懸念をよそに見て見ぬふりを押し通す。やがて、子どもたちは少しずつ心を開き、おたがいを受け入れていくのだった……。

 
わたしがひときわ心動かされるのは、カンタが優等生のケンジに導かれて学級に馴染んだのちに、ガキ大将のヤマキンの出現でたちまちその世間が広がった成り行きだ。小川のなかに突き落とされたり、首だけ出して地面に埋められたり、そんな手荒な仕打ちに遭いながらも、カンタの顔はいきいきと輝いている。そう、子どもたちにとっては「首から下」の交流が大切なのだ。映画のクライマックスでは、ついに和解を果たした学級では全校相撲大会に向けて一丸となり、およそ闘争心とは無縁のカンタにケンジとヤマキンが協力して稽古をつけ、その甲斐あって、全員がフンドシひとつの格好で優勝を勝ち取る!(ガキ大将のヤマキンの造型は、同じ稲垣監督の名作『無法松の一生』の主人公に重なるものだろう)

 
それにしても、とわたしは疑う。このドラマが時代背景とする時期は、小学校にも容赦なく軍国主義の波が押し寄せていたはずで、本当にこうした牧歌的な教育が成り立ったろうか。あるいは、敗戦を機にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が強力に推し進めた民主主義を旗印とする教育改革と、教師の放任のもとで子ども同士が激しくからだをぶつけあう手法は相容れたろうか。恐らくは、ここに描かれたような学校は実のところ、戦前にも戦後にも存在する余地がなかったはずだ。

 
いや、そればかりではない。戦後78年を数える今日においても同断ではないか。教育現場でのSNSの浸透にともなっていっそう深刻化するいじめや自殺でも、また、世間を震撼させた相模原市障害者施設殺傷事件(2016年)に見られるような差別意識の蔓延でも、こうした問題に対して「頭の上」の理屈だけでなく、人間教育の原点に立ち返った「首から下」の泥臭い交流こそが必要とされているのではないか。もとより困難には違いない、ことによると実現は不可能なのかもしれない。であるならいっそう、この映画はわれわれの手が届かない理想郷を描き、永遠の指標を示してみせたことで、これからも輝きを放っていくのだろう。


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