アナログ派の愉しみ/本◎朱 熹 著『観書有感』

あらゆる学問は
倫理学ではないのか


一橋大学名誉教授の坂井洋史とは中学・高校の同級生だ。長らく中国近現代文学の教鞭をとってきて今春(2024年)退職するにあたり、一般公開の最終講義が行われると知って、わたしも出席させてもらった。

 
「低徊の愉楽(たのしみ) 文学史的思考とは何か」と題した当日の講義は、予定1時間半のところ倍近くの長丁場におよび、とどまるところのない碩学の熱弁に誘われて俗世を忘れ、はるかな中国文学の世界に心遊ばせる境地を味わった。もとより、浅学菲才のわたしにその全容を伝えることは覚束ないものの、ごくかいつまんで深く印象に残った個所のみを書き留めておこう。文責が当方にあることは言うまでもない。

 
坂井によれば、文学史とは定型の図式などではなく、点と点をつないで線とし、線と線を交錯させて面とすることで全体像が立ち現れ、これを掘り下げるとともに、新たな点や線を加えてつねに変容させていくという、その意味で「行きつ戻りつの閲読」によってもたらされる不定型の運動体だとする。

 
そこで、ひとつの具体例として中国の文学史における韻文形式の「詞」に着目し、北宋末期・南宋初期の女流詩人・李清照(1084~1158年)と、清朝初期の詩人・王漁洋(1634~1711年)、現代中国の詩人・兪平伯(1900~1990年)の三者がつくった「蝶恋花」を俎上にのぼせた。恋する蝶が花に舞い降りるというタイトルにより、男女の心理の綾を主題とするのは伝統的なスタイルだそうだ。およそ800年の歳月のスパンのなかで、ごく日常的な素材を扱いながら表現や内容を移ろわせていくこれらを点と点として線で結び、面へと拡張させ、さらにそれぞれの作品が背景とする社会状況や錯綜した人間模様を丹念に掘り起こしていくことで、目の前に生々しい文学史が立ち現れるさまにはすっかり圧倒されてしまった。

 
そのめくるめくプロセスを辿るのはとうていわたしの手に負えない。だが、こうした遠大な知的冒険を結ぶにあたって、坂井が言及した南宋の儒学者・朱熹(1130~1200年)の詩についてはぜひとも触れたい。

 
 『観書有感』二首之一
 
 半畝方塘一鑑開
 天光雲影共徘徊
 問渠那得清如許
 為有源頭活水来
 
 半畝(ほ)の方塘一鑑のごとく開き
 天光と雲影と共に徘徊す
 渠(かれ)に問う那(いか)でか得たるや清きこと許(かく)の如きを
 源頭有りて活水来たるが為なり

 
こんな意味だという。わずかばかりの池が鏡のように空に向いて、水面には日の光と雲の影の流れるさまが映っている。どうしてこのような曇りない清らかさを得たのかといえば、それは生きた水源が絶えず水を送り込んでくるからだ――。これは朱子学の創始者となった自己の学問に対する心構えを表明したものだった。と同時に、それはそのまま文学史というものに立ち向かうときの「行きつ戻りつの閲読」にも通じるものであり、のみならず、自分が大学の仕事を終えて今後を生きていくにうえでの指針ともするものだと告げて、坂井は最終講義を終えたのだった。

 
かくして、わたしもおぼろげながら理解したのである。「文学史的思考」とはどうやら倫理学につらなるらしい。いや、それにかぎるまい、あらゆる学問はひっきょうひとりひとりの生き方にかかわる倫理学でなくてはならないのだろう、と。
 

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