アナログ派の愉しみ/本◎『尾崎放哉句集』

あの名句を生み出したのは
錬金術師の手並みか?


・壁の新聞の女はいつも泣いて居る
・口あけぬ蜆(しじみ)死んでゐる

 
一切を放り出して転落してしまいたい。そんな願望にとらわれがちな者にとって、尾崎放哉(ほうさい)の俳句はひそやかに寄り添ってくれる慰めだろう。

 
1885年、鳥取県の旧士族の家に生まれ、旧制一高から東京帝国大学法科を経て、東洋生命に入社。まさにエリートコースを邁進していたはずが、だれしもサラリーマンなら身に覚えがあるだろう日々の葛藤をアルコールで紛らわすうち、その酒癖がいっそう軋轢を招いて退社する。その後、朝鮮火災海上に転じて京城(現・ソウル)へ赴任したものの、ここでも酒乱やみがたく会社を追われて帰国。あまつさえ結核を患い、妻とも離別して、奉仕施設や各地の寺を転々としながら、1926年、小豆島で41歳の生涯を終える。その間、生命の残り火を燃やして、五七五の定型や季語にとらわれない自由律の句作に励み、孤独の極限の心境を刻みつけていった……。

 
わたしは吉村昭著『海も暮れきる』(1980年)で大正期のこの俳人を知り、心の友としてきたが、ドイツ文学者・池内紀が編んだ岩波文庫『尾崎放哉句集』の解説に接してうめいてしまった。それによると、近年、放哉の俳句には添削されたものが含まれていることが明らかになり、冒頭に掲げた代表作のふたつも、もともと本人が詠んだオリジナルはつぎのとおりのものだったというのだ。

 
・いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞
・口あけぬ蜆淋しや

 
どうだろう? わたしの目には、両者のあいだにかなりの隔たりがあるように見えるのだけれど。ここまでくると、捏造、とまでは言わなくても、改作ないし合作と理解したほうが妥当なのではないか。

 
添削に当たった荻原井泉水(せいせんすい)は、1884年、東京生まれ。旧制一高で俳句会を創立して、そこに1学年下の放哉も加わり「井師」と呼ぶ師弟関係が終生続くことになった。1911年、新傾向俳句運動の機関誌『層雲』を発刊して、放哉は彷徨の生活にあって盛んに投稿し、井泉水が添削して発表するという連携プレーが行われたのだ。こうした成り行きは俳句の世界ではありふれたことかもしれないし、わたし自身ことさら目くじらを立てるつもりはないのだけれど、だとしても、当の作者以上に孤独の極致を表現してみせた添削者の手並みには、あたかも鉛を金に変容させたようなきわどさを感じてしまう。

 
その井泉水は『詩と人生』(1972年)という著書で放哉の俳句を論評している。もとよりみずからの添削の次第などオクビにも出さず、自由律の句作の手本としてつぎの作品を俎上にのぼせた。

 
・入れものが無い両手で受ける

 
ここには作者が小豆島の寺で無一物の生活を送るなか、近在のひとから思いがけず施しを授かったときの心境が見事に刻みつけられていることを説いたうえで、なんと、井泉水は「私の拙い英訳」まで示してみせる。

 
・There is nothing for getting.
 Here is all on my own hands.

 
まさしく錬金術師の技というべきだろう。井泉水は放哉の死後半世紀を生き、他に種田山頭火などの弟子たちも育てあげ、晩年には自由律の俳人としてただひとり日本芸術院会員の栄誉にも浴して、1976年に92歳の天寿を全うした。
 

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