アナログ派の愉しみ/映画◎ジャック・フェデー監督『女だけの都』

「アダムとイヴの時代から」
最強の女たちは世界を救えるか


ジャック・フェデー監督が1935年に発表した『女だけの都』は今日の目で観ても抱腹絶倒の傑作だけれど、その根っこには、われわれがおいそれと理解できない感性が横たわっていると思う。まだベル・エポックの香りが濃厚に残っていた当時の、フランスのコメディならではの爛熟の味わいのことだけではない。そもそも、この優雅と猥雑がないまぜになった茶番劇を成り立たせているのは、極東の島国に暮らす者にはとうてい窺い知れない精神風土なのだ。

 
物語の舞台は、17世紀初めのフランドル地方の城壁に囲まれた小都市ボーム(現在はベルギー領)。かつて一帯に猛威をふるったスペインの軍隊はもう久しく鳴りをひそめ、住民たちもすっかり呑気な生活に慣れていたところに、突如早馬の使いが訪れて、スペインの公爵と護衛の部隊が当地を通過するのでひと晩宿泊させてほしいと伝えてきた。そのとたん、たちまちパニックとなったのは、やってきた兵隊が暴虐のかぎりを尽くして街を蹂躙した昔日の記憶を失っていなかったからだ。

 
この危急存亡の局面で、ボームを代表する市長が案じた一計は、みずからが死亡したことにして、男たちは服喪のため姿を隠すというもの。ふだん威張りくさっているくせに、いざとなると妻子よりわが身大切に汲々とする男たちのありさまに呆れ果て、女たちが立ち上がる。市長夫人(フランソワーズ・ロゼー)は広場の演壇で「アダムとイヴの時代から女は最強なのです。さあ、私たちで街を救いましょう、実行力と判断力と勇気を武器に!」と宣言するのだ。このあたり、男たちの恐怖心と、それを逆手に開き直った女たちの克己心の対比のリアリズムは、隣国と地続きで向き合っていればこそで、しょせん四方を海に守られた島国の住人にとってはファンタジーでしかあるまい。

 
いよいよスペインの一行を迎えて策略が発動する。それは端的に言ってしまえば「色仕掛け」だ。城壁のゲートに「みなさま、いらっしゃいませ」の横断幕を掲げ、市長夫人を先頭に女たちはそれぞれ取って置きのドレスに身を包み、公爵以下の将校やら従軍神父やら道化やらのひとりひとりに手を携えて招き入れ、兵隊の群れがあとに続く。そこにはふんだんにお酒とご馳走が、さらに整えられたベッドまでが用意されて……。まさに究極の「おもてなし」作戦なのだった。

 
かくして、その後に繰り広げられた出来事をいちいち報告するのは無粋と言うものだろう。宿屋での盛大な歓迎パーティでは、不甲斐ない夫に業を煮やした女盛りのご婦人方にとって、野趣あふれる兵隊がひときわ魅力的に映ったのもむべなるかな。もとより兵隊のほうもスペイン人の情熱の血が騒いで、おたがいに今宵かぎりの仲とわかっていれば後腐れもなく、歌とダンスと色恋沙汰のうちに夜が更けていく。貞淑な市長夫人もまた、公爵と深夜のひと時を分かち合って、いまさら死んだふりをやめられない夫を尻目に、その愛の囁きを楽しみながらあくまで拒んでみせた。

 
翌日、夜が明けると早々に、公爵は「余はスペイン人を快く歓迎してくれた市民に胸を打たれた。よってボームの税金を1年間免除することを約す」との文書を残し、部隊を率いて去っていく。それを見送る市長夫人の目には安堵の光はなく、寂寥の色もなく、はなはだ不思議なことに深い苦悩の陰りが宿っていた。それは一夜のアヴァンチュールが終わりを告げて、これからも平凡な夫と家庭を営んでいくことへの空しさからだろうか。まさか。この街に滞在中は颯爽と振る舞ってみせた公爵にしたって、おのれの屋敷に戻れば、そこにでんと腰を据えた妻君の尻に敷かれてぐうの音も出ないのは同様だろう、と賢明な市長夫人なら容易に想像がつくはずだから。

 
そうではないのだ。この映画が撮影中だったころ、隣国では国家元首の座についたばかりのアドルフ・ヒットラーが再軍備を表明した。そして、わずか5年後にドイツの戦車隊が国境を突破して、あっという間にパリへの無血入城を果たすことになるのだ。ふたたび軍隊によって国土が蹂躙されるというひりつく予感のなかで、じゃあ、現実の不条理に立ち向かって、アダムとイヴの時代から最強の女たちは何ができるのか――。市長夫人がラストシーンに刻んだのは、その重い問いかけを突きつけられて絶句する表情であった、とわたしは思う。
 

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