アナログ派の愉しみ/本◎クロフツ著『樽』

「アリバイ崩し」とは
哲学的な問題である


アイルランドの鉄道技師、F・W・クロフツが1920年、41歳のときに発表したミステリー小説『樽』は、いわゆる「アリバイ崩し」のスタイルを確立した古典的名作として知られている。

 
ある4月の朝、ロンドンの埠頭に荷揚げされた運送用の樽から女性の死体が現れたことで事件の幕が開く。樽を発送したパリの商会によると、もとの中身は彫像だったという。そこで、スコットランドヤードのバーンリー警部とパリ警視庁のルファルジュ刑事が協力して捜査にあたったところ、問題の樽がフランスからイギリスに届いたのち、いったん送り返されて、すぐにまた運ばれるという具合に、ドーヴァー海峡を往き来するあいだに彫像が死体に入れ替わったことが明らかになる。やがて被害者の身元がパリのポンプ製造会社のボワラック社長の夫人と判明し、彼女は事件発生の数日前に自宅のパーティで愛人と会ったあとで行方知れずとなったことから、夫のボワラックが裏切った妻を殺害・遺棄したとの容疑が浮上したものの、かれには樽の入れ替え工作がなされた日時に遠く離れた場所にいたというアリバイがあった……。

 
そこに、ロンドン一の腕利き探偵ラ・トゥーシュが登場する。かれは行き詰まった捜査の打開を依頼されると、さっそく行動を開始した。こんな具合に。霜島義明訳。

 
 旅慣れているラ・トゥーシュは夜行ではたいてい熟睡するが、いつもというわけではない。闇を驀進する長距離急行列車のリズミカルな振動が、眠気を誘うよりもむしろ脳を刺激する場合があって、寝台で横になっている間に閃きを得たことが一度ならずある。今夜、カレー発パリ行きの一等コンパートメントの片隅で、傍目には椅子にもたれてぼんやりしているようでも、頭の冴えているこの機を利用して、やるべき仕事をじっくり考えることにした。
 まずはボワラックのアリバイの再検証だ。〔中略〕ラ・トゥーシュは事件の眼目と考える「樽からの死体の発見」に注意を向け、現に判明している事実と推測の領域を分けて考えることにした。

 
この記述は何を意味しているのだろう? 先行したバーンリー警部とルファルジュ刑事は骨惜しみなく熱心な捜査を行ったが、あくまで実社会を座標軸にして、そのなかを浮遊する樽はたんなる変数でしかなかった。他方で、パリ行きの夜行列車でラ・トゥーシュ探偵が思考をめぐらしていたのは、逆に樽を座標軸として、実社会のほうを変数と見なそうとするもので、結果としてこのやり方が容疑者の鉄壁のアリバイに風穴を開けていく。すなわち、「アリバイ崩し」とは事実関係の重箱の隅ではなく、それを成り立たせている座標軸を転換させることによって達成されるというわけだ。

 
こうした態度は、古代ギリシアにあって樽のなかで暮らしていた哲学者ディオゲネスに由来するといったら大袈裟だろうか。あながち、そうでもなさそうだ。作者のクロフツが生きた時代のロンドンには、樽のなかこそが世界と受け止める「ディオゲネス・クラブ」なるものが実在していたという。コナン・ドイルは、あのシャーロック・ホームズの兄マイクロフトも会員のひとりで、弟よりもずっと推理の能力に恵まれていたと短篇『ギリシア語通訳』(1893年)で紹介しているから、その後裔たるラ・トゥーシュ探偵が「アリバイ崩し」を哲学的な問題と捉えて成功したのも当然の成り行きだったろう。

 
もっとも、真犯人のボワラックのほうがさらに上手だったかもしれない。かれはラ・トゥーシュ探偵を自分の屋敷に迎え入れ、犯行の顛末について洗いざらい告白して自首の素振りを見せたうえで、素早く外へ飛びだすと、扉の鍵をかけるなり火を放った。そう、かつて妻の首を絞めて殺害した現場であり、いまはその真相を知る唯一の人物を焼き殺す現場でもある屋敷を、かれは巨大な閉ざされた樽に仕立てあげたのだった。その手並みはある意味でディオゲネス以上と賞賛する他ないだろう、たとえ直後に破滅が待っていたとしても……。
 

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