アナログ派の愉しみ/映画◎チアウレーリ監督『ベルリン陥落』

史上最大のプロパガンダ映画が
いまに伝える教訓とは?


最先端のメディアとして映画が歩み出した時代は、2度にわたる世界大戦が勃発した戦争の時代であり、したがってプロパガンダ映画の時代でもあった。世界各国でその手の映画がおびただしく作られたなかで、おそらく最大の規模を誇るのはソ連のチアウレーリ監督による『ベルリン陥落』(1949年)だろう。わたしはショスタコーヴィチが担当した音楽に興味があったのだが、大戦終結4年後の製作ながらフルカラーで2時間半を超す破格のスケールに度肝を抜かれてしまった。まさに国家的事業としてコストや労力を度外視して作られた、その意味では贅沢きわまりない代物なのだろう。

 
ときの最高権力者スターリンをひたすら賛美するストーリーは、ざっとこんなふうに展開する。製鉄工のアリョーシャは優秀な成績をあげて表彰され、モスクワのスターリンのもとへ招待される。やがて恋人の小学校教師ナターシャと結ばれようとした矢先、ふたりはナチス・ドイツの電撃的侵攻に巻き込まれてしまう。ナターシャは捕虜となって強制収容所へ連れ去られ、意識不明の重態から回復したアリョーシャは、祖国とスターリンを守り、ナターシャを救出するために、赤軍に志願して敢然と最前線に立つ。

 
このあと、ソ連軍とドイツ軍のあいだに繰り広げられる戦闘場面は、ホンモノの軍用機や戦車をはじめ、ふんだんに武器・弾薬とエキストラが投入されて、さながら撮影自体がれっきとした戦争だったと窺われるほどだ。やがて、スターリンの天才的な戦争指導によって攻勢に転じた赤軍の怒涛の進撃ぶりを、ショスタコーヴィチも自作の交響曲第7番〈レニングラード〉やオラトリオ〈森の歌〉を引用しながら、エネルギッシュな音楽で盛り上げる。かくてソ連軍は米英軍に先んじてベルリンを制圧して国会議事堂に勝利の赤旗を掲げ、アリョーシャとナターシャは再会を果たす。スターリンは「全世界の人々の平和のためにこれからも戦おう」と宣言するのだった……。

 
人類の救世主のごときスターリンの対極に位置するのがヒットラーで、悪魔のごとく世界支配を叫びながら狂気に駆られ自滅していくありさまが、わかりやすい図式で描かれているだけに、ともすればスターリンとヒットラーがコインの表裏のように重なって見えてくるのもプロパガンダ映画の宿命なのかもしれない。実際、これをつくった人々も観た人々も、スクリーン上の歴史がことごとく捏造されたものであることは承知していたはずだ。

 
であればこそ、スターリンの没後、あとを継いだフルシチョフがいわゆる『スターリン批判』(1956年)のなかで、「『ベルリン陥落』という映画を思い出してみましょう。その中で行動しているのはスターリンだけです」と槍玉にあげ、「すべてのことが、このような偽りの光の中で描かれています。なぜでしょうか。それは、事実と歴史的真理にさからっても、スターリンを栄光で包むためです」(志水速雄訳)と断罪したため、以後長きにわたってこの超大作は封印されてしまう。

 
そのソ連も世界史の舞台から退場した21世紀のいま、プロパガンダ映画というジャンルは役割を終えたかのようだ。人類の進歩によって、こうした子どもじみた手法はもはや通用しなくなったのか。いや、そうではあるまい。いまやファクトとフェイクが融合したネットの情報空間においては、もはやプロパガンダの定義すら無効になったのが実情ではないか。選挙における圧倒的な勝利の美名のもと、プーチン大統領による支配の期間が近い将来にスターリンを超えようとしていることのほうが、わたしはずっと子どもじみた現実に思えるのだ。
 

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