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コーヒー牛乳とチョコレート 第三話

「校舎で黎人と会うのは初めてだよね」
「そういえばそうだね。普段は入れ違いで登下校だから」

 二日後。私は普段よりも三十分早く登校して生徒玄関で黎人と落ち合った。黎人は今日も塾だけど、一本遅いバスでもギリギリ間に合うからと学校に残ってくれていた。答え合わせはやっぱり二人でしたいから。

「あれ、黎人の友達?」
「何だ風雅ふうがか」

 下駄箱で上履きに履き替えていると、通りがかった全日制の男子生徒が声をかけてきた。お互いに名前を呼んだということは、黎人の友達だろうか? 長めの髪の毛先を遊ばせ、制服もシャツのボタンを緩めて着崩している。人懐っこそうな笑顔も印象的だ。

「幼馴染の比古胡桃。定時制の一年なんだ」
「比古胡桃です」
「俺はつかさ風雅ふうが。黎人とは同じクラスなんだ。よろしくね胡桃ちゃん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」

 初対面でいきなり下の名前で呼ばれるとは思わなかったけど、不思議と図々しさは感じられない。嫌味なく自然と相手と距離を詰められるタイプなのかもしれない。黎人とは違うタイプだし、初見では本当に友達なのか半信半疑だったけど、司くんのコミュ力を実感した今は、二人が親しくなる様が有り有りと目に浮かぶようだ。たぶん、何らかのきっかけで黎人に興味を抱いた司くんがグイグイ距離を詰めたのだろう。

「胡桃ちゃんとは一度会ってみたかったんだよね」
「私に?」
「うん。だって黎人がよく君の――」
「余計なことは言わないでいいぞ風雅。これから部活だろう。さっとこの場を立ち去れ」

 いつも冷静な黎人が柄にもなく狼狽し、慌てて司くんの口を塞ぐようにして言葉を遮った。司くんが何を言おうとしたのかは気になるけど、今は子供みたいな黎人のリアクションが可愛くてそれどころじゃない。

「ははっ、黎人から珍しい反応を引き出せただけで良しとしておくか」

 したり顔で黎人の肩に手を触れると、司くんは踵を返した。

「俺、普段から部活で遅くまで残ってるから、校内で見かけた時はよろしくね、胡桃ちゃん」

 手を振ってそう言い残すと、司くんは風のように去っていた。突然のことで驚いたけど、新しいご縁が生まれたし、普段はなかなか目にする機会のない、黎人の学生生活の一端が垣間見えたようで面白かった。

「黎人。さっきの話なんだったの?」
「何でもない。あいつはテキトーなことばっか言うから、会うことがあっても、あまり話を真に受けないように」

 黎人をここまで動揺させるとは、司くんはなかなかのトリックスターのようだ。黎人はああ言っているけど、話は次回、司くんと遭遇した時にでも聞いてみることにしよう。自分で言っておいてなんだけど、遭遇とかまるでレアキャラみたいだな。

「……風雅に余計な時間を取られた。そろそろ図書室に行こう」
「そうだね。入れ違いになったら意味ないし」

 私と黎人が学校で待ち合わせたのは、図書室で生井好さんと接触し、経緯を打ち明けた上で事情を伺うためだ。図書委員の東さんの情報提供で、生井さんは今日、再び「ライラックの歌」を借りるにくる可能性が高い。

「突然すみません。定時制二年の生井好さんですよね? 私は一年の比古胡桃です」

 図書室に入ると文芸コーナーの棚の前に、ストライプ柄のブラウスを着た白髪交じりの女性の背中を見つけた。指をかけた本を一度棚に押し込むと、静かに私の方へと視線を向ける。

「一年生というと、楠見くんのクラスよね」
「はい。楠見くんとも仲良くさせてもらっています」

 突然声をかけられて少しだけ驚いた様子だったが、共通の知人の名前が出たことで、眼鏡をかけた顔には直ぐに柔和な笑みが浮かんだ。

「そちらの子は?」
「全日制の猪口黎人です。彼女とは幼馴染で」
「実は最近、私と黎人の二人で酒武道さんの『ライラックの歌』についてずっと調べていて」
「彼の本を? どうしてまた」
「事情はお話しします。少しお時間を頂いてもよろしいですか?」
「構わないわよ。この本を借りていくから、少し待っててね」

 突然の申し出にも気分を害することなく、生井さんは頷いてくれた。棚から「ライラックの歌」を手に取ると、貸出カウンターで手短に手続きを終えた。

 図書室で話し込むのはマナー違反だし、他の生徒の迷惑になる。この時間は自分以外の生徒はまだ登校していないからという生井さんの提案で、私達は定時制二年の教室へと場所を移した。

 話の前提として先ずは、私と黎人が「ライラックの歌」について調べ、生井さんと接触するに至った経緯を包み隠さず打ち明けた。勝手に人様のことを調べていたことには負い目を感じていたし、苦言を呈される覚悟はしていたけど、生井さんは終始微笑みを浮かべながら、私たちの言葉に耳を傾けてくれた。

「すみません。勝手にこんなこと」
「少し驚いたけど、別に迷惑をかけられたわけではないし、私は気にしていないわ。確かに同じ本を借り続ける私の姿は目を引いただろうし、そこはむしろ反省ね」

 苦笑顔で生井さんは頬をかいた。理解を示してくれたことで私達も安心した。怒らせてしまう可能性も十分に考えられたから。

「今回の件について、私たちの推理を聞いて頂いてもよろしいですか?」
「是非とも聞かせてちょうだい」

 生井さんも私達とのやり取りを楽しんでくれているようだった。もしかしたら生井さん自身も、酒武道や「ライラックの歌」について語れることを楽しんでいるのかもしれない。ならば私も遠慮なく切り込んでいこう。

「酒武道こと坂健道さんと生井さんは、学生時代の知人なんですよね?」
「坂くんとは中学時代の同級生よ。二人で文芸部にも所属していたし、お互いに良い友人関係を築けていたと思う」

「現在通っている学校の図書室で見つけた旧友の著作。懐かしく思って本を借りることはむしろ自然な流れだと思います。だけど生井さんはそれを何度も繰り返していた。そこまで思い入れがあるのなら、行きつけの書店で文庫本を買うことが出来るし、本を借りるにしても、年中開館していて、より返却期限の長い市立図書館を利用した方が効率的です。もっと言うなら、学生時代の友人の本であることを考えれば、すでに所有している可能性だって考えられる。いずれにせよ、どうして陽炎橋高校の図書室で『ライラックの歌』を借り続けるのかが大きな疑問でした」

「その理由を、あなたたちはどう推理したの?」

 目配せして黎人に一度バトンタッチ。この質問には、最初に秘密に気付いた黎人に応えてもらうことにした。

「僕はこの謎の鍵を握るのは『ライラックの歌』が、第五刷りよりも古いか否かだと考えています」
「詳しく聞かせてちょうだい」

「まず大前提として、図書室に置かれている二冊の『ライラックの歌』は三十二年前当時に、酒武道先生自らが母校に寄贈された初版本です。このことは図書委員の友人にも確認済みです。同時期に同じく母校である陽炎橋第一中学校にも寄贈されています。中学校に関しては僕と胡桃も最近まで通っていた出身校なので、後輩に図書室を確認してもらったら、やはり『ライラックの歌』の初版本が置かれていました」

「あら、二人は私の後輩でもあったのね」

 生井さんと坂さんは私達の母校、第一陽炎橋中学校の卒業生だった。四十年以上前のことなので、私達の交友関係では、この数日間で当時の卒業生まで調べることは出来なかったけど、図書室に置かれていた「ライラックの歌」が中学の坂健道さんがOBであることを証明してくれた。坂さんと同級生だった生井さんも、必然的にOGということになる。

「出身校の図書室に書籍を寄贈しているとすれば、本を扱う公共施設である図書館にも寄贈していると考えるのが自然です。だけど現在図書館で取り扱っている『ライラックの歌』は初版本ではなく、第五刷りのものでした。司書の方に事情を伺ったところ、やはり酒先生からの寄贈があり、本来は初版本を取り扱っていたそうですが、貸し出し中の汚損が原因で廃棄せざるを得なくなり、本を新調したという経緯があったそうです。結果、当時流通していた第五刷りが図書館に置かれるようになり、現在へと至ります」

 図書館に行った時点では、私は黎人の意図がまったく気づいていなかった。本がそこまで古くなかったから違和感を覚えたそうだけど、それだけの気づきでここまで核心に近づくのだから、黎人のセンスには驚かされる。推理を補強するために、中学校の後輩に協力を仰ぐなど抜け目ない。

「ここまでは寄贈された図書室や図書館の本について掘り下げてきましたが、では書店で販売されている書籍についてはどうでしょう? 現在流通しているのは文庫本で、単行本を入手することはそう簡単ではない。加えてその内容はどうやら、単行本の第五刷り以降の内容に準拠しているようです。即ち文庫には、それ以前の版の内容は収録されていない」

 レビューサイト等で内容に関する言及が無ければ、私はこのことには絶対に気がつかなったと思う。どのタイミングで出版されたものであっても、その内容は全て同じだという先入観があったから。私の読書量はせいぜい人並みだけど、黎人はミステリー小説を中心に熱心な読書家だ。だからこそこの点に気付けたのだと思う。

「酒武道先生は第五刷り以降で、内容に何らかの変更を加えた。だけど出版から三十二年が経った今、陽炎橋市内で初期の単行本の内容を確認することが出来る場所は限られている。だからこそあなたは、その内容を確認するために、初版本を扱っている高校の図書室で何度も本を借りたのではありませんか? これが僕達の辿り着いた結論です。現物を拝見したことがないので、僕が読んだ文庫版と初版本の違いまでは分かりませんでしたが」

 この推理には私も黎人も自信を持っている。生井さんは初版本の内容を確認するために、それが置いてある高校の図書室で何度も本を借りた。だけど何が彼女をそこまで惹き付けたのか、一体初版本には何が書かれているのか? そこまでは私達には分からない。

「お見事。客観的に観測できる部分の推理は完璧と言ってもいいわ」

 生井さんは感嘆した様子で手を叩いた。客観的に観測出来る部分。すなわち、第三者である私達が知り得る事実に関しては正解を導き出せたようだ。ご本人公認なのだから自信を持ってもよいだろう。

「あなたたちの推理通り、私は坂くんの初版本の内容を確認するために頻繁に図書室を利用していた。『ライラックの歌』を持ってはいるけど、私が持っているのは第五刷り以降の単行本と文庫本でね」

 やはり生井さんも「ライラックの歌」を所有していた。それが初期の版でなかったから、今回の状況が生まれたようだ。

「事情を聞いてもいいですか?」
「ちょっと黎人。そんな直球じゃなくても」

 こういう場面で黎人には遠慮がない。確かに事情は気になるけど、あくまでもこれは生井さんのプライベートな問題だ。他人である私たちがこれ以上踏み込んでいいものか、この後に及んでも私にはまだ迷いがあった。

「安心して。人に話す機会が無かっただけで、別に秘密にしておきたい話というわけではないから。ただし、交換条件というわけではないけど、話を聞かせる代わりに、あなた達にも一つ協力してもらおうかしら」

 思わぬ展開に、私と黎人はお互いの顔を見合わせた。

「私たちに出来ることなら協力しますが、具体的には?」
「坂くんがどうして内容を改稿したのか。あなた達の意見がほしいの。何度もこの初版本を借りているのは、私自身がその答えを出せないでいるからよ」

 確かに一冊の本を読み込むにしては、生井さんが本を借りる頻度は明らかにオーバーしている。だが答えを求めていたのなら、それ相応の時間がかかるのも当然だ。

「初版本の内容を教える前に、経緯から話しておきましょうか。私と坂くんは中学時代の同級生。卒業後、坂くんは陽炎橋高校に入学したけど、当時の私は進学はせず、県外の旅館に就職して住み込みで働くことになった。成人式や同窓会にも出席しなかったし、実は坂くんとは中学を卒業してそれっきりなの。ペンネームだったし、彼が小説家としてデビューしたのを知ったのも、訃報を知った時だった」

 中学卒業以来会っていなかったというのには正直驚いたけど、当時は携帯電話が普及していないし、生井さんが卒業と同時に県外に就職してしまったのなら、それきり疎遠になってしまうのも仕方がない。

 中学卒業と同時に就職するにあたり、生井さんもあまり気持ちに余裕はなかったと思うし。地元を離れていた時期のことだから、陽炎橋市出身の坂さんが小説家としてデビューしたことも把握していなかったのだろう。

「転機が訪れたのは数カ月前。卒業から四十年の節目を記念して中学の同窓会が行われてね。私も久しぶりに参加したの。亡くなって三十年が経ってなお、坂くんの話題は絶えなくてね。その話の中で坂くんの親友から、病床の坂くんの言葉を聞かされたの。『生井さんは「ライラックの歌」の本を読んだのかな? 最初の頃に読まれていたら恥ずかしいな』。坂くんはそう言ったそうよ」

「だから、初期の『ライラックの歌』を探すように?」

「坂くんには悪いけど、彼がどうして私に見られたくないと思ったのか気になるじゃない。たけど手元には第五刷り以前の本は無いし、図書館や書店を探しても見つからなくて。インターネットには疎いのだけど、頑張ってネットでも探してみようかと思っていた矢先に、まさかの灯台下暗しね。通っているこの陽炎橋高校の図書室で、坂くん自身が寄贈した『ライラックの歌』の初版本を発見した。そうして、私の持っている本と初版本とでは何が違うのか。二冊をじっくりと見比べるのを繰り返し、現在に至るわ」

「図書室の本の存在にはいつ気づいたんですか?」

「比古さんは一年生だったわね。三学期には選択授業があって、その中に図書室での読書と感想文の提出というものがあるの。その時に『ライラックの歌』に気付いて、担当の先生に定時制の生徒でも本を借りられるのか確認もした」

 図書室を利用している定時制の生徒は実質、生井さんだけ。その生井さんはどうやって図書室を利用出来ると知ったのか、密かに疑問だったのだけど、定時制の生徒でも授業で図書室を利用する機会があるとは私もまだ知らなかった。

「初版本は一体どんな内容だったんですか? お酒の種類が変わっているそうですが」

 核心へ迫ろうとする黎人へ、生井さんは先程図書室で借りて来た初版本の、本文の最後のページを開いて私達に示した。

『――僕はウイスキーのボトルを棚の奥深くにしまいこんだ。この一杯と共に、君とはお別れだ』

 私達の読んだ文庫では登場するお酒はワインだったけど、初版本ではウイスキーとなっていた。また、ワインの時はボトルを飲み干していたけど、こちらでは飲みかけのウイスキーのボトルを棚の奥にしまい込む表現になっている。

「内容そのものに大きな変化はないけど、作中で五福大一がお酒を飲む描写の全てがウイスキー、第五刷り以降はワインに変えられている。バブル期の作品だから、当時の流行を反映してワインに変えただけかもしれないけれど、ウイスキーだからといって物語が破綻するわけではないし、何よりも私に見られたら恥ずかしいという言葉の意味が理解出来ない。そのことがずっと謎なの。是非とも探偵さん二人の意見も聞かせてもらいたいわ」

 内容の詳細が語られると同時に、生井さんからの交換条件も提示されることとなった。作中でお酒は確かに印象的な小道具だけど、それだけで物語が大きくひっくり返ることはない。しかも生井さんという特定の個人に対して、著者の坂さんが恥ずかしさを覚えるというのが大きなポイントだろう。ウイスキーでは駄目で、ワインなら大丈夫。それはどうして?

「ペンネームに酒を使っているぐらいだし、お酒に詳しかったのかな。何かお酒の種類によってメッセージ性が変わってくるとか? けど、流石にお酒のことはよく分からないしな」

 隣の黎人は早速考察を始めているけど、未成年ということもあって流石の黎人もお酒の知識には明るくない。私は仕事でアルコールを提供する機会こそあるけど、だからといってお酒そのものに詳しいわけではない。お酒方面の知識はきっと、人生経験豊富な生井さんの方が詳しいだろうし、明確な違いであるお酒の持つ意味については真っ先に調べていると思う。私たちはむしろ、もっと別の視点を持つべきなのではなのかもしれない。

「ペンネームは酒武道」

 私はペンネームについて掘り下げてみることにした。本名は坂健道だけど、名前は「たけみち」と読むことも出来る。本名を読みかえた後、別の漢字を当てて「酒武道」というペンネームになったと考えるのが自然かな。

「もしかして、読みかえ?」

 図書館で初めて酒武道の漢字表記を知った時の感覚が蘇る。あの時私は、初見だと「たけみち」を「ぶどう」と読んでしまいそうだなと思った。もしそこに、作家としての言葉遊びのようなものが秘められているとしたら?

「さけ、ぶどう。……葡萄酒ぶどうしゅ?」
「胡桃。今何て?」

 呟きを拾った黎人がハッとした様子で私を見つめている。もう! ビックリするからかっこいい顔でそんなに見つめないでよ。

「ペンネームを読み替えたら、葡萄酒になると思って」
「葡萄酒はワインの漢字表記だ。ペンネームにあえて酒の字を当てている辺り、意図的に感じる。作中に登場するワインが一気に意味深になるね」

 ペンネームの中に、さらに隠されたもう一つの名前。ワインはいわば、作者の分身と言い換えることが出来るかもしれない。

「だったら、ウイスキーにも何か隠された意味があるのかも」

 胸が、パズルのピースが埋まっていくような高揚感に満ちていく。
 酒武道を読み替えてワインになるのなら、ウイスキーにもその法則が当てはまるかもしれない。ウイスキー、ウイスキー、ウイ……あれ、生井?

「すみません。生井さんのお名前って確か?」
「好ましいと書いて、このみよ」

 そうか。話は思ったよりもシンプルなんだ。ウイスキーの意味に気付いた瞬間、全てに納得がいった。

「ウイスキーの意味が分かりました。これはおそらく、生井好さんの名前ではないでしょうか。好はきと読めますから」

 私の言葉に生井さんは一瞬目を丸くし、少し間を置いてから無言で頷いた。静かに動揺しているという印象だ。

「そうか。確かにウイスキーは生井さんの名前に対応している。だけどどうして坂さんはウイスキーからワインに――」
「黎人。もういいよ」

 黎人の肩に触れて首を横に振る。黎人はまだ全てを理解出来ていないようだけど、これ以上私達が深入りするのは野暮だと思う。ここから先はきっと、生井さんと坂さんの四十年越しの物語だから。

「……卒業後は就職すると決めていたから、私からは何も伝えなかったんだけどな」

 かつての坂さんとの日々を思い返しているのだろうか。生井さんは目頭を押さえて俯いていた。

「私達はこれで失礼しますね」

 まだ釈然としない様子の黎人を連れて、教室をお暇することにした。生井さんも今は一人で感情を整理したい気分だと思う。四十年越しに届いた思いを咀嚼するには時間が必要なはずだから。

「二人には感謝しているわ。私一人ではきっと、坂くんの思いには気づけなかったから。ありがとう。探偵さんたち」

 去り際の生井さんの言葉に救われた気がする。私達の行為はきっと無遠慮な好奇心だったと思う。だけどそれが生井さんの手助けになれたのなら、この謎解きにも意味はあったと、今はそう思える。

「胡桃。さっきのは何だったの? 完全に僕だけ置いてけぼりくらった感じだったけど」

 人の多い場所でする話ではないので、私と黎人は人気のない校舎裏のベンチへと移動していた。黎人は塾、私は一時間目の授業が控えているので、話は手短に済ませなくてはいけない。

「今は生井さんを一人にさせてあげたかっただけ。内心はきっと動揺していたと思うから」

 黎人は人の感情の機微に疎い部分がある。普段接客をしている私は逆に敏感すぎるのかもしれないけど、あの状況ではあれが引き際だったと確信している。謎解きという形で関わってしまったけど、本来ならこれは、生井さんと坂さんの二人だけの、極めてプライベートな出来事だ。

「胡桃は、坂さんがお酒をウイスキーからワインに変えた理由に気付いたんだよね?」

 生井さんの前で口に出すのは野暮だと思ったから場所を変えたけど、ここまで調査を続けてきた身として黎人にも知る権利はある。私の考えていることはあくまでも推測の域を出ないけど、生井さんの反応を見るに、限りなく正解に近いはずだ。

「中学時代の生井さんと坂さんは両想いだったんじゃないかな。だけど、卒業と同時に離れ離れになることが分かっていた生井さんは坂さんに思いを告げることはなく、二人の関係は中学卒業と同時に途切れてしまった。だけど、坂さんは大人になって、小説家としてデビューしてからも、生井さんへの思いを抱き続けていたんだと思う」

「だから、生井さんの名前と関連付けたウイスキーを小説に?」

「作中で社会人となった五福大一は、ウイスキーを飲む度に学生時代の恋を思い出している。坂さんが五福に自分を重ねて執筆していたとしたら、ウイスキーそのものが過去の恋心の象徴だったのかもしれない。あるいは無意識レベルで自然とそう表現してたのかも」

「確かに筋は通るけど、どうして後にワインに改稿を?」

「ご本人が亡くなられているし、完全に想像でしかないけど、坂さん自身に心境の変化があって、過去を過去と割り切って、現実としっかりと向き合おうと思ったのかもしれない。だからこそお酒の種類を、自分のペンネームから転じたワインに変えた。飲みかけのウイスキーと、飲み干したワインという表現の違いも、過去に縛られず、今の自分を受け入れるという意味なのかも。これなら、生前の坂さんが生井さんに初期の内容を見られたくないと発言したのも納得出来る気がしない?」

「確かに坂さんの立場からすれば、初恋の相手への個人的な感情が見え隠れする内容を、ご本人には見られたくないと感じてしまうのは当然かもしれないね」

 小説家ではなく、一人の男性として坂健道という人を捉えたことで、黎人もようやく腑に落ちたようだった。小説家、故人の思い、四十年以上の歳月。それらの要素が物語を複雑化させたけど、実際に覗き込んでみるとそれは、一人の男性の初恋の思い出が詰まった、とても個人的な感情だったのだ。

「胡桃は凄いな。僕一人ならそこまで感情を深く読み取ることは出来なかったと思う」
「私からしたら黎人こそ凄いよ。黎人は知識が豊富だし、物事を論理だてて推理することが出来る。私にはそこまでは出来ないもの」
「だとすれば、お互いの足りない部分を補い合う僕達は、やっぱり相棒だね」
「相棒か。そう言われて悪い気はしないかな」

 乙女心としてはパートナーという表現ならばもっと喜べたかもしれない。だけど、きっとこの言葉選びが黎人らしさなんだよね。そういう黎人だからこそ私は黎人に惹かれていった。だから私は相棒と呼んでもらえて嬉しいよ。

「やばい。そろそろバスの時間だ」
「私も、もうすぐ予鈴だから教室に行こうかな」

 話し込んでいる間に、全日制の生徒と定時制の生徒が交差する彼者誰時かわたれどきが訪れていた。一つの謎を解き明かし、すっかり達成感に浸っていたけど、私はこれから普通に授業があるし、黎人も塾に行かなくてはいけない。もう夕方だけど、私達の一日はまだまだ終わらない。

「それじゃあ胡桃、授業頑張って」
「黎人も、バスに間に合うといいね」

 慌ててバス停の方へ走っていく黎人を見送ると、私は生徒玄関の方へと向かった。

「ライラックが咲いてる」

 ふと、生徒玄関近くの花壇に植えられた赤紫色の花が目にとまった。春の花であるライラックだ。その名の通り、「ライラックの歌」の表紙にも写真が使われていたので、この数日でずいぶんと見慣れた気がする。

「そういう意味だったんだ」

 何となく気になり、スマホでライラックの花言葉を検索してみる。
 表示された花言葉は「初恋の思い出」だった。

 ライラックライブラリー 了 
 

 第四話

 第一話


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