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加賀日記④ 京都 (終)

京都は私の青春そのもの。

今回は親友たちに会いに京都にも行った。割といつものことである。今回はいくつか回った場所を簡単に。

一つ目は私が青春時代を過ごした学舎。立命館大学。と言っても当時はサークル活動に熱を上げて学業はサークル引退まではすごく不真面目であった。(恥ずかしながら一度落第している)
しかし、人生でもかけがえのない友人たちに出会い、サークル活動や運営のために努力し奔走し、また学業にも本気で打ち込んだ経験はとても大変だったけどとても楽しく、あの経験が今の私の思い出であり、そして今の力の源でもあると思う。

京都駅からバスで30〜40分ほど。京都市の方の方へと登って行くと私の母校はある。今でも多くの学生で溢れていて、なかなか活気がある。
私はサークルの部室に入り浸っていたクチだが、同じく図書館に籠るのが好きだった。古い図書館の書庫に潜り込んで、紙の匂いに包まれながら論文の参考文献を探したり、ただ興味本位で気の赴くままに本を手に取っては読んでみたり。大学という空間は高校までの受験のためにやらされる勉強とは違い、自分の興味のある方へと進むことができる。その知的で刺激的な日々は、今でも私の心の中で燦然と輝いている。

私は法学部で憲法を専攻した。恥ずかしながら民法はてんでダメで、公法に逃げ込んだという方が近いかもしれない。しかし憲法を学びながら日本という国の姿、問題点について洞察する機会を得たのは僥倖だった。私は法学部にいながら、憲法や政治学、歴史学に多く関心を持って学んでいたので、法律家を目指す優秀な同輩たちのようなリーガルマインドを持つには程遠いが、しかし定義の大切さ、深く洞察する楽しさを学ぶことができた。
高校時代までは若者に特有の過激で浅薄な思想の持ち主であったが、先生方の話や講義に触れて、モノの見方の大切さを学んだ。世界は見方によって大きく変わる。賢い方からすると「そんな当たり前のことを」と呆れられるかもしれないが、私が初めて真に理性的かつ自律的な思考をするようになった瞬間でもある。
知れば知るほど、学べば学ぶほどに分からなくなるのも大学の学問だった。もう嫌になってしまう時期もあったが、そういう悪戦苦闘の日々も今では僕のパーソナリティの中で大切な記憶である。
(京都の話というより大学の思い出話になった)

二つ目は北野白梅町。大学周辺もかなり思い出深い。先輩や後輩と連れ立って近所のカフェで談笑したり。夜な夜な定食屋で大盛りのチキンカツ定食を頬張ったり。友達の家で鍋を食べて酒を酌み交わしながら文学や歴史、法律や政治についてあれこれ議論したり。初めての恋に浮かれたり。そして初めての失恋に悲しんだり。学舎で学問をするなら、大学周辺は人生の学びの場である。
料理をして洗濯をして…一人で生活をして行く大変さ、母の偉大さ、父の偉大さに気付かされたのも大学生時代。
野菜がとても高いことを知ったのも大学生時代。
日々の生活でも多くのことを学んだ。

ところで、「文系の大学は意味がない」と叫ばれることが増えた昨今。しかし文系の大学生をやっていた者としてこれだけは言いたい。日本の文化を伝え守ること、日本の政治的問題や社会的問題について、一人の市民として、今後を担う若者の一人として、それらの問題を科学的に考察することは、これからも文系大学、そこに通う大学生に課せられた使命だと思う。


今回は知り合いに連れられて亀岡の出雲大神宮にも行ってきた。
こちらも古い神社で、社殿の裏手には森が広がっている。清らかで神聖な雰囲気。清浄な水に身も心も清められる気持ちになれる。また森の中には磐座が鎮座しており、自然信仰の一端を感じ取ることができる。この神社に来ると、もしかすると神というものは存在していて、そのエネルギーに、我々は現に触れているのではないか、そう思わせるものがこの社にはあった。
またこの神社では持参したタンクに水を汲むことができる。この水がとても良い水なのだ。柔らかいという表現が近いかもしれないが、お酒の合間の和らぎ水やお茶に最適で、身体が喜ぶ、いくらでも飲めるような水なのだ。(飲む時は一度煮沸しましょう)

京都には色々な魅力ある場所がありますが、今回はこのくらいで。あまりにも素敵な場所が多過ぎるので、また機会があれば書いてみようと思います。

名古屋ー金沢ー能登ー京都の旅もここでおしまい。

加賀日記 了


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