空港ドラマ、我が家の場合
半年ぶりに太平洋を跨ぐ為、荷造りをした。頼まれた日本の食糧(殆ど乾物やお茶、お菓子)をスーパーにせっせと買い出しに行き、勉強道具を入れたらスーツケースはもう一杯。大きなスーツケースを二つも持つのは無理なので、無理矢理ぺったんこに洋服を入れ洗面用具や化粧道具は最低限のものを隅っこ暮らししてもらった。
結構、いっぱいになっちゃったなあ、持てるかな〜?と測ったら何とジャスト20キロ。ビックリした!まだまだ余裕じゃん!全然いけるやん!と。でも、私一人ならこれで十分。もうこれ以上は無理。ええやんこれで。と思ってしまう自分が『確実に歳食ったな〜』と思う。サワサワと勝手に流れ続ける時間を感じる。
30代40代の頃は、大きな二つのスーツケースにワーっと家族分の生活必需品を荷物に入れて測ったら25キロ。あと、2キロ、どうやって減らそうか、家で、空港で、途方に暮れながら、中身を入れたり出したり、何度も頭を捻った。重量問題は本や漫画が原因だった事が多い。電子書籍がまだ無い時代。
子ども達はベビーだったり、チビだったり、小学生だったり、ティーンズ初期だったり。それでも一人二個までの荷物はカウントされるので、子ども達の荷物にあぶれた物を無理矢理詰め込んだり、手荷物を追加して持たせたり。「お母さん、重い〜!」とゴネられても「その手と体を使え〜!」と空港の長い廊下や駅の階段を有無を言わせず歩かせた。体育会系鬼母。
そう、歩けていたのはまだ余裕。
上りの新幹線が止まって、運転しても成田エクスプレスに間に合わないかも、という事態があった。東京駅での乗り換えでは間に合わないからと新しくなった品川駅の階段と廊下を猛ダッシュ。滑り込みで着いた成田では京都から連絡してあったANAの地上係員のお姉さんとまた猛ダッシュ。出国審査では一番前のどこの国か分からない人に「搭乗始まっているんで先に行かせて下さい!」と突撃英語交渉。走りながら二子に「お母さん、なんでわざわざ外国人に聞くの?日本人の人に日本語で聞けば良かったのに。」と言われてアボ〜ん、後の祭り。「あ〜、お土産物屋さ〜ん!東京ばな奈っちゃ〜ん!!」と後ろ髪を引かれながらもターミナルの廊下を走る走るひたすら搭乗口に向かって走る。そう言えばビザ更新で行ったバンクーバー空港でもよく走ったな、懲りない私達。
ぎゃ〜!人が動き始めてる!搭乗始まってる〜!!!と焦った搭乗口はアメリカ・東海岸行き。西海岸はさらに奥。ひえ〜っ!走り過ぎてだんだん呼吸に血の匂いがしてきた。やっと遠目に見えてきた搭乗口はまだ人の動きは無さそう。大丈夫だ、とやっと立ち止まりカラカラの喉を潤すために飲んだ自販機のポカリの美味しかったこと、美味しかったこと。
一人でベビー三太を連れて日本へ一時帰国した帰り、機内でベビー三太ふんぎゃーふんぎゃー泣いて周りへの気遣いが大変だった時もあった。極度の疲労と時差で、フラフラになりながら着いた入国審査は人が溢れるような長蛇の列。当時の私はビザホルダー。Alienの列はカタツムリのような進み具合。ダメもとで、と意を決して強面の案内係の黒人おじさんに「この子シチズンなんですけど、あっちのシチズンラインに並んではダメですか?」と交渉。チラリとベビーブースターの中の三太とボロボロで半泣きな私を見比べて「しゃーねーな」感バリバリでGo!と言ってくれたおじさんの低音ボイスは一生忘れませぬ。
まだ、関空がまだ新しかった頃。
西海岸から到着した飛行機のドアが開いて、ふわっと日本の湿気を含んだ空気の匂いを嗅ぎながら蛇腹廊下を歩いて行った先にいきなり長いエスカレーターがあった。荷物を持った一子を先に行かせ、左手にキャスター右手に荷物を持った私。二子に荷物の取っ手をしっかり掴んでおくように言い聞かせてエスカレーターに乗った。上を見上げていると後ろから「おかあさ〜ん!!」と半泣きで叫ぶ二子。私の後ろはスカスカ。あ’’〜っ!!!!と慌ててエスカレーターをゴットンゴットンその場で降りている滑稽な自分にハタと気づいた時、二子の後ろにいたお兄さんが手を繋いで乗って来られるが見えた。上り終えた所で後から来た二子とお兄さんに深々御礼。二子、人生初の日本人イケメン男子に出会った瞬間。私、海外平家育ちチビのエスカレーター・エレベーター不慣れを思い知った瞬間。
コロナ前の冬、父の葬式を済ませ、一週間程母に寄り添い後片付けをした。本当はもっと一緒に居てあげたかったのだけれど、永住権の更新の為の面接日が迫っていて変更は許されなかった。
京都から伊丹に着いた時にはまだ晴れていて、伊丹の搭乗口で待っている間テレビのニュースで「関東はこれから夕方から夜にかけて雪となります。」と言っていて驚いた。不安になってフライトスケジュールを近くのカウンターで確認。今の所変更は無しとの事で無事、予定通り羽田まで運航された。
羽田から成田に向かう空港リムジンバスに乗車中、雪が降り始めた。首都高を通りながら東京の街がうっすらと雪化粧して綺麗だったのを覚えている。降雪で首都高は激混み。ディズニーランドも雪化粧。千葉の奥に向かってどんどん雪が強くなって行った。「フライト間に合うかな?ちゃんと飛ぶかな?帰れないと困るんだけどな。」まだそんな程度だった。
成田の雪はどんどん激しくなって行く一方だった。結構ギリギリで成田に到着したので出発時刻が後ろ倒しされていたのでホッとした。搭乗手続き・出国審査を終えて搭乗口で待っている間もアナウンスに次ぐアナウンスで出発時刻がどんどん後ろ倒しされて行った。こうなってくると雪と航空関係者と時間との三つ巴の闘いになる。機体や羽に着いた氷や雪を溶かす作業、滑走路や待機周辺の雪かきをする作業、CAさんやパイロットさんも規定の労働時間と待機時間が決まっている。降雪のタイミングと除雪作業が間に合わずクルーの待機時間が超えてしまうとその便は欠航となってしまうのだ。
隣のゲートのシアトル行きの便の欠航が決まったのが、23時半頃。こういう時は地上係員さんのご案内で別経路で空港から出なければいけない。搭乗待機をされていた方々が疲れた様子でゾロゾロと大きなドアに入って行かれた。小さなお子様連れもいた。気の毒だけど仕方ない。天気は博打だ。
雪がますます激しくなり、凍てつく寒さの中、外で必死に除雪作業されている方々を見ていると、私も超軽装(父が急逝で喪服を持って来る事しか考えていなかった)で寒かったけど、文句言ったらあかん!と電源のある椅子を死守して寝っ転がってひたすら出発のアナウンスを待った。
0時を少し回ったところで、サンフランシスコ行きの搭乗案内がアナウンスされた。ほっと安堵の空気が搭乗口に広がる。でも、スタンバイのクルーの皆様はこれから9〜10時間のフライトお仕事だ。本当に頭が下がる。
搭乗のパスポートチェックの時、地上係員のお姉さんが「大変お待たせ致しまして申し訳ございません。どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ。」と言って下さった。仕事とは言え、皆さんこそこんな時間までお疲れでしょう、と思い「いえいえ、こちらこそこんな遅くまでご尽力頂き、本当にありがとうございます。」と返したらお姉さん、涙ぐんでおられた。
後日、搭乗アンケートで高評価をレビューを具体的に書いたのは言うまでもない。チップ文化が無いからこんな事位しか出来ないけど、空港で働くすべての方々のチームワーク、安全運航の為の素晴らしいお働きに日々感謝。
日付変更線のお陰で日本を出た太平洋線の飛行機は同日に西海岸に到着する。グリーンカードの延長手続きにも空港直帰で間に合った。グリーンカードの写真はボサボサ頭の超スッピン、疲労感満載で今でも笑える。