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私たち人間が生きる意味について



プロローグ

人間や自分はなんで存在してるのだろう、生きること、人生にはいったいどんな意味があるのだろうか。

と、そんな風に考えたことが誰しも一度はあるのではないでしょうか。

私も、子供のころからよくそういうことを考え、自分なりの答えを見つけてきました。

初めてその答えの一つに辿り着いたのはおそらく中学生くらいのころだったと記憶しています。

きっかけは、そのころくらいから宇宙に興味を持ち始めたことでした。

人間は発達した脳で高度な文明社会を作り、地球上の生物生態系の頂点に立ちました。そしてあくなき好奇心は今や宇宙にまで向かっています。

宇宙は果てしなく広く、無数の星々があり、今だ解明されていない未知のエネルギーに満ちています。
その中のたった一つの惑星である地球で私たちは生きています。

宇宙という存在の中では、地球はほんの小さな一つの点のような存在でしょう。

何が言いたいかというと、そんな点のような惑星が宇宙全体=私たちが認識できる世界全体に与える影響はほぼ何もないに等しいように感じるということです。

悲観論的になにをやっても無駄というようなことを言っているのではなく、物理的に宇宙全体というのは広すぎるのです。

ここで最初の問いに戻ります。
私たちはなぜ存在し、いかにこの人生に意味を見出せるのか”、と。

宇宙視点での人間が生きる意味

このように宇宙から見た私たちという視点(宇宙視点とでも言いましょうか。)で私たちが生きる意味を考えた時、そこにはどんな意味が見いだせるのでしょうかと考えてみます。

もちろん、人間が生きることにそんな意味など存在しないと言うこともできるでしょう。

しかし、それを承知の上であえてこれらだけは一点の曇りもなく人間である私たちが生きている意味であると言うことができると私が考えることを書いていこうと思います。

第一の私たちが生きる意味

一つ目に上げておきたい私たち人間が生きる意味は、

楽しむこと、です。

たとえ宇宙という果てしない世界全体に対して何をしても影響を与えられないとして言いようのない虚無観や無力感を感じたとしても

今この瞬間を楽しいと自分が感じているということは自分にとって疑いようの無い主観的な事実であり、生きている意味があると言い切れるのではないでしょうか。

おそらく楽しいという情動を感じている状態を嫌いなるべく避けようという人はいないでしょう。(楽しいと思えることを常に避けたいと思っている方は教えてください。笑)

むしろ全ての人は自分なりの楽しさを感じられる状態を望み求めていると思います。

その人にとってその状態は心地が良く快的な状態であるからです。

なので、楽しむこと、というのは無条件で私たち人間が生きていく意味である根源的で生きることを支える土台的なものだと言えるのではないでしょうか。

第二の私たちが生きる意味

二つ目は、他人を楽しませること、です。

一つ目と繋がっているのですが、自分が楽しむことが私たちの生きる意味と言えるのなら同じ人間である他人を楽しませることもまた私たちが生きる大きな意味であると言っていいのではないでしょうか。

一説には人は他人に対して何かをして感謝されたり喜んでもらうことは自分に対して何かをする以上に幸福感や満足感を感じるとも言われています。

プレゼントやお土産を送ることはいい例だと思います。この行動には自分は渡した物を楽しめないとしても相手が楽しんでくれたら自分も嬉しいなという気持ちが込められていると思います。

つまり他人を楽しませるということは自分を楽しませることにも繋がるということですね。

これは、私たち人間は社会的な生き物なので他人の役に立ちたい、貢献したいという欲求を持っていることに由来していると考えられます。

理屈抜きにしても他人を楽しませることはこの世界に対して私たちができる素晴らしい行為の一つだと私は思います。

第三の私たちが生きる意味

三つ目は、他人を育てること、です。

育てるというと少し話が大きくなるので、他人の人生に対して何か良い影響を与えること、と言ってもいいかもしれません。

たったの一言が聞いた人の人生を変えることもありますからね。

他人に対して自分が何かの働きかけをしたことによって相手の人生が好転していき、その後の人生で楽しさや幸せを見つけられる一助になれることは、自分が生きた意味があったなと思えることなのではないかなと思います。

今の自分個人だけや人間にできないことも、そうやって他人を育てることをこの先の人間が何代にも渡って行い続けることでいつか可能になるかもしれませんしね。

人を育て、次代に私たちのバトンを渡していくことはそれぐらい重要な意味のあることなのです。

他人を育てるというのは自分の子どもだけでなく、会社の同僚後輩、部活の仲間後輩など自分が関わる他人全般の誰に対してでもいいと思います。

あなたが良い影響を与えたその人の中にはあなたが生き続けるでしょう。

そして、その人の人生がより良いものになっていったらそんな素敵なことはないのではないでしょうか。

第四の私たちが生きる意味

四つ目は、幸せになること、です。

楽しむことに似ているようで全然異なるのがこの幸せになることだと思っています。

楽しむことの時間軸がより短期的なその瞬間の快的な情動を経験することを目指していることに対して、幸せになることはもっとより長期的な時間軸に根ざした快的な状態を目指すことを目的としています。

私たち人はしばしば無意識に幸せになりたいと願ったり言ったりすることがあります。それはたとえ自分にとっての幸せがどんな状態なのか具体的には思いつかなくてもあると思います。

つまり、私たち人間には幸せになることを求める本能が生まれつき備わっているのかもしれません。

幸せな状態、幸福とは何かと何千年も前から多くの人たちが思索を巡らせてきました。(ここで所謂イワユル幸福論について詳し書くことは止めておきます。)

幸せのある程度の答えは見つかりだしてはいますが、自分の幸せの答えはやはり自分にしか見つけることができないのだと思います。

自分はどんな状態なら幸せだと感じるか少し大きく息を吸って想像してみてください。胸が温かくなるのを感じたらそれがあなたの幸せのイメージなのかもしれません。

さらに、自分が幸せだと周りの他人も幸せにすることができることもあります。

私たち一人ひとりが幸せになること、なることを目指すことはその短いようで長い人生を生きていくためにも重要な意味があることなのではないでしょうか。

第五の私たちが生きる意味

五つ目は、他人を幸せにすること、です。

他人を楽しませることのところでも書きましたが、私たち人間は他人の役に立てたり喜ばれると自分も喜びや幸福感を感じます。

おそらく他人を楽しませること以上に他人を幸せにすることはその効果も大きくなると思います。

自分のために他人を幸せにするというのは少し純粋ではないというかそんな理由でいいのかなとも思いますが

そうやって幸せにしたいと思える他人がいることそのものが素敵なことであり、私たちの人生に生きる意味を与えてくれるようにも思います。

幸せにしたいと思える他人は、家族や恋人などの心理的肉体的に近い人だけではなく組織のリーダーならその部下の人たちや自分が推しているアイドルやさらにはアニメの中の架空のキャラクターでもいいと思います。

そういう意味では今流行りの推し活というのもとても偉大なことのように思えますね。

誰であれ幸せを願える他人の存在は尊く、その人のために何か行動を起こしたいという力=明日を生きる原動力は私たち人間が生きていくための疑いようのない大きな意味であると私は考えます。

エピローグ

今回は以上の五つの私たち人間が生きる意味について書かせていただきました。

これらはどれも私がこれまで生きてきた時間の中で考え、確からしいと思えたものです。

もちろんこれらが全てではないですし、これからも考え続け見つけていこうと思います。

そして、私たち人間が生きる意味はその個人一人ひとり違っていていいと思います。決まったものはありません。それが生きるということでもあると思います。

皆さんも一緒に自分の生きる意味を考え見つけていきましょう。

ここまでお読みくださった皆さん本当にありがとうございます。

ご意見ご感想などございましたらコメントなどいただけますと嬉しいです。

これからもこのような人生哲学や哲学書の解説、芸術や文化、歴史などについての考察など人間を広く理解するための記事を書いていこうと思いますので、よろしければフォローしてお待ちいただけると幸いです。



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