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好きの当事者

破裂しないか、友達とハラハラしながら膨らませた水風船。セミの抜け殻を袋いっぱいに集めた。祖父母の家に遊びに行けば、じっとりと汗をかきながら近くの林を駆け回り、素足に川の冷たさを感じ、駄菓子屋へ手を引かれ、いつも私の一歩先を進む飼い犬と散歩した。

私が小学生時代に過ごした夏の日々は、8月の終わりに感じる寂しさも含めて、輝きを失わずに心の中にある。私は夏が大好きだった。

あまりの暑さに、太陽が出ている時間は外に出られない日々が続いている。
朝目覚めたら、ためらわずに冷房のスイッチを入れることがいつの間にか当たり前になった。

大人になった私は、朝起きて洗濯機を回して、フローリングを掃く。簡単な朝食を食べながら新聞に目を通し、時間になったらパソコンを開いて仕事をする。20代の頃仕事探しに苦しんだ私は、今の在宅の仕事をとても気に入って、暮らしはきっと自分の思いのままに過ぎていっている。

それなのに、8月のはじめ頃から、何をするにも無気力な日々が続いていた。夏の強い日差しのなか汗を光らせる、テレビの向こうの高校球児をまぶしく眺めながら、これはきっと暑いせい。きっと生理が近いせいだ、と言い聞かせながら、どうにかしなければという思いだけが募っていた。

ひまわりが見たくなって、私が住む地域の名所を検索したけれど、暑くてどこもたどり着く前に力尽きてしまいそうだ、と夫と話していた。そこで家から程近い距離にある庭園に足を運ぶことにした。バラがメインの場所なのだけれど、夏には夏の花々が、風鈴の音と一緒に出迎えてくれることを思い出したのだ。

お盆のせいか、暑さのせいか。ガーデンには私たちのほか、ほとんど誰もいなかった。豊かな木々がつくる陰のなかは、まちのなかの刺すような暑さが息を潜めていて、これならゆっくり写真が撮れるね、と私たちは笑いあった。

心が動いた風景をシャッターにおさめるために汗をたっぷりかいて、木陰のベンチに腰を下ろした私は、あたりの空気を満たしてしまうほどのセミの声に包まれて、夏の音を久しぶりに聞いていることに気づいた。

「夏は変わってしまった」「かつてのようには過ごせない」。そんな思いに囚われて、私は大好きだった夏を見失っていた。一歩踏み出せばすぐ近くにあったのに。セミの声を聞いているうちに、心がスッとほぐれていくのが分かった。

命を守るために外出を控える。体調や年齢、さまざまなことを考え行動を決める心構えに決して間違いはない。だけど、内へ内へと向かう行動は、いつの間にか心の動きをぎゅっと縮めてしまうのかもしれない。

昔読んだ本にあった「適切な服装をすれば、天気が悪いなどということはない」という言葉が、実感を持って迫ってくる。私は今まで首に巻いて使う冷却アイテムをまちで見かけるたび、「対症療法」という言葉が頭に浮かんで避けてきたのだけれど、思い切って使ってみたら、驚くほど外に出るハードルが下がった。食わず嫌いせず、もっと早く使えばよかったのに……という自分自身からの言葉は聞かないふりをして、この夏は思いっきり頼るつもりだ。

好きの当事者でいるためには、ふれあい続けるしかないのだ。どれほど愛していることでも、物語の主人公のように”自家発電”だけでずっと関わり続けることは、私には難しい。放っておけば毎日に埋もれてしまう好きという気持ちを、呼び起こしながら進まなくては。

そしてそれは、環境問題のような大きな相手に向き合うときにも、毎日の仕事をコツコツと積み上げ続けていくときにも、立ち向かうための力になるのだろう。

思わず足がすくんでしまうこともあるけれど。自分が大切だと思うことなら、成り行きに任せず工夫を重ねて、ささやかでもできることを考えながら暮らすことを忘れずにいたい。

*書籍紹介
朴沙羅『ヘルシンキ生活の練習』筑摩書房




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