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スネオヘアーじゃない!

昭和時代のプロ野球選手を見たら、令和の若者たちはどう思うだろうか?

きっと

何、この滑稽なおじさんたちは?

と思うに違いない。

それくらい、ユニフォームのデザインも大の大人が着るには、どうかと思うような珍妙でやけにカラフルなものが多かったし、あとぴったりフィットサイズだったから、スタイルがいい原辰徳とかならまだしも、落合とか門田とか、中年のビールっ腹がさらに強調されて、子供ながらに、なんかダッセェよなあ、と思ったものだった(あと当時の野球選手の私服も紫のダブルのスーツにセカンドバッグといった感じで糞ダサかったしね)。

けど、だから嫌いだったかというとそーゆー訳では決してなくて、いい年したおっさんたちが、変なキャップ被って、あと変なソックスとか履いて、必死に白球を追いかけている姿に、割と本気で胸熱になっていたものだ。

そんな僕の当時の一番のお気に入り球団は、広島カープだった。

当時のカープは、投手王国と呼ばれるくらい先発〜中継ぎ〜リリーフと名投手が目白押しで、単純にすごく強かったのが好きになったきっかけだったけど、巨人や阪神といった立派なスタジアムを持ち、ファンも多いメジャー球団に比べると、明らかにローカル色が強く、イケてない感満載の佇まいにいつしか惚れ込んでいた。

何しろ、名前が

鯉(CARP)

である。

鯉がジャイアンとか虎とか竜とかクジラとかと戦うわけだから、まさに正気の沙汰じゃない。でも、燕にはもしかしたら善戦するかなあ。

って知らんけど。

あと当時、僕は大阪に住んでいたから、サンテレビで阪神vs.広島戦をよく見ていたのだけど、カープのホームグラウンドの、広島市民球場がほとんど草野球チームレベルのしょぼい球場だったのも僕の判官びいきを加速させた。

実際、スコアボードもまだ手書きだったはずだし、テレビカメラに頻繁に映し出されるライト側の内野席の観客はいつもまばらで、東京ドームや甲子園にあるようなプロ球団の華やかさのかけらもなかった。

そんなスポットライトの当たらない(実際、市民球場のライトは他より暗かった)場所で、若い女の子とかにキャーキャー言われることもなく、ドロにまみれながら、毎日、試合に勝とうと必死に奮闘するオッサンたち。

みんな本気でダサかったけど、キラキラしてて本当にカッコよかったなあ。

そんなカープの好きな選手も枚挙にいとまがなくて一人に絞るのはなかなか難しいけど、自分の人生観にもっとも影響を与えたという点で選ぶと、やはり

津田恒美投手

になるかな。

炎のストッパーという異名を持つカープ黄金時代を支えた名リリーフである。

あと、ゴイゴイスーという名の魔球の持ち主でもある。

ウソです。

というかほとんどが変化球を使わず、ストレートで真っ向勝負するタイプの投手だった。

だから、若くして肩を痛めて、先発ではなくて、リリーフに転向するんだけどね。

確かに150kmを越える豪速球が売りの投手だった。

もちろん津田よりも速い球を投げる投手はその後たくさん出てきたけど、原辰徳という当時、間違いなく球界ナンバーワンクラスのスラッガーとストレートだけでガチンコ勝負して、原の手を粉砕骨折させた、などという漫画みたいな逸話を持つのは、彼くらいではないだろうか。

そう、彼こそ、まさしく記録じゃなくて、記憶に残るタイプの選手だった。

あと、あんな顔して、奥さんめちゃくちゃ美人だというのも、ブサメンな僕に勇気を与えてくれた(笑)

しかし、いわゆる駆け引きが出来ない選手だったから、調子が悪いときは、メタメタに打ち込まれることも少なくなかった。

そんなときに自分を鼓舞するために、津田がマイボールに、

弱気は最大の敵

とマジックペンで書いていたのは有名な話だ。

ある災禍が舞い込んで、彼は意図せず若くして選手生命を断たざるを得なくなるのだけど、それでも本人は最期まで選手であることを諦めなかった。

そして、そんな今は亡き、変なキャップとユニフォームを着たおっさんのことを、僕はたまに思い出すことがある。

そして、それはたいがいあの言葉が必要なときだ。

だから、9回裏二死満塁の絶体絶命のピンチで、あのランディ・バースを迎えたときの彼の心境を想像しながら、僕も唱えてみよう。

弱気は最大の敵!

〈おしまいける〉

BGMはこの曲で。ここでようやくスネオヘアー登場(笑)でも、めっちゃよい曲!


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