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(雑談)書くことと嘘


結構しんどい時自分は後頭部のあたりがもわっと膨れ上がるような感覚になるのだが、これはなんだろうか。頭に靄がかかったようになって頻繁にめまいがする。急に動悸がしたり、止んだりを繰り返す。こんなふうに書くとさも心配をされたがっているようだけど(実際そうなのかな)、いざ書いてみると単にそれだけのことに思えて、書く側としてはかなり楽になるのが不思議だ。
書くことの「癒し」の効果は様々な作家によって言われ尽くされているが、自分は比較的それを実感しやすいほうだと思う。悩みがあるとたちまち誰も読まないような長ったらしい文書が目の前に生成されている。これもそのひとつだ。

後頭部の膨らむイメージはさっき聴いたシガー•ロスの『A Good Beginning』というアルバムのジャケに描かれている宇宙人のイメージからきているのかもしれないと気づいた。では、私の一番最初の文章は嘘なのだろうか。さも以前からよくある症状に見えるよう書いてしまった。嘘、ということもないのだと思う。前からそういう症状があったのは本当だし、実は病院に行って軽度の鬱と診断されたこともある。貰った薬は体に合わなかったのでほぼ飲まずに捨ててしまったけど。ではなぜ最初から「鬱の症状で〜」と書かなかったのかと言われると、言葉につまる。そういうふうに思わなかったからだとしか言えない。なにも病名が身体的な感覚よりも真実に近いという理もなかろう。

「文章を書く」という行為は少なからずいつも作為的で、それは嘘を吐く感覚にほど近いと感じるときもある。たまに作者がなるべく嘘を排して書いた文章もあるが、好みでないことが多い。それは作為に自覚的にならないように麻酔を打ちながら書いているように見えるからだ。私たちはみんな少なからず作為的で、ずるくて、調子がいいことを言っている。もちろんその中にも責任感のある文章や、誠実な文章、正確な文章というものは存在して評価に値するが、文章の愉しみはなにもそれだけではないはずだ。

佐藤信夫の『わざとらしさのレトリック』という本に、漱石は擬人法が嫌いと公言していたが実際は漱石自分も擬人表現を巧みに使う作家だった、ということが書かれていた。(手元にその本がないので正確な引用ではない。)この場合漱石は嘘を吐いたのかと言うと、私はそうでもないんじゃないかと思う。なんというか、どっちも本当だったのだと思う。ここに論理的な検証を加えながらなにか面白いことを言うのはすでにこの著者がとんでもなく巧くやっているので、私はこの事実になんとなくの共感を覚えるに留めておく。

漱石という作家はでも、私なんかとは違ってとても説得的な文章を書ける人物だった。しかし彼の文章がロジカルに見えるのは彼のサービス精神による部分が大きいように思う。文章を書くというのはさほどロジカルな作業ではないと、少なくとも私は考えている。最も自然な形で生れた文章はいつだって論理的整合性を欠いていたではないだろうか。神話や、古典のことを思い出して欲しい。だからそれをロジカルに見せる努力はいつだって作家のやる気とサービス精神に支えられているのだ。

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