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「言葉」は誰もが持てる素晴らしい道具

 自分ではない誰かの言葉が、強く鋭い形を持っていることが多い。もしかしたらそれは、他人に「伝える」ことを意識せず、研磨されずに出たありのままの言葉だからかもしれない。
 日本語は不思議な事に、同じような言葉で溢れているのだから。できるだけ沢山の道具を知って、持って、誰かを傷つけるのではなく、力になるような言葉を紡いでいきたいと私は思っている。

 それと同時に、「他人」だけではなく「自分」に対する言葉も大切にしていってほしいと思った。つい自身も使ってしまうけれど「自分なんて」、そんな言葉は使わないでほしい。声に出せない気持ちを一番知っているのは自分自身で、「自分」という人間が何に感動して、泣いて、辛くて、嬉しいのかを最も理解できる人物なのだから。

 仕事や学校、色々な場面で「こんな自分は●●だ/本当はこうすべきなのに出来てない」と思ってしまう瞬間があるかもしれない。けれどその原因は何なのか、を見つけるのが一番大事なんじゃないだろうか。
 「自分が何に躓いているのか」
 「何に苦痛を感じて、いつもみたいに振る舞えないのか」
 きっと自分が自分を認めてあげられない状況が、一番辛くて。自分を一番傷つける行為だと私は思う。


 折角、様々な言葉で溢れている日本語を「他人」にも、「自分」にも心を砕いて使いたい。
 言葉の可能性に気付かず、乱暴に使っている場面を見ると、傷つくと同時に「なんて勿体ないんだろう」と悲しくなる。

 「言葉」の素晴らしさと秀逸さが、できるだけ多くの人に広がればいいのに。きっと広がれば、「言葉」ひいてはコミュニケーションで人が傷つけられることが徐々に少なくなるのではないだろうか。
 そう思わずにはいられない。

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