見出し画像

プロレスから学ぶ物語論〜現実と虚構の狭間の物語 閑話01a共通幻想理論〜プロレスラーはなぜ「世界最強」を求められたのか。前編

 男子に共通する妄想体験
 
 男子にほぼ共通する妄想体験は「エロ」と「世界最強」である。
 エロに関しては論旨と関係ないのはもちろんだが、ほぼ語ることがない。男子女子関係なく、想像の範囲を超えることはないだろう。想像通りの妄想である。個人の趣味嗜好の範囲も逸脱しない。その意味では「妄想としてのエロ」はエロ以外の部分がとても重要になってくるのだが、それはまた別の話だ。
 
 だが「世界最強」の妄想に関しては、思いの外、妄想する範囲や個人の主張が分かれる。
 それは「妄想」なのにも拘わらず、やってきた競技や経験、触れてきたスポーツ、影響を受けた選手や衝撃を受けた試合などで大きく妄想の内容が変わってくるからである。
 
 ボクシングをやってもいた者(あるいは好きな者)であればマイク・タイソンは未だに挙がる「世界最強」の代名詞だし、レスリング関係者であればアレキサンダー・カレリンの名を挙げる者もいるだろう。
 プロレスであればアントニオ猪木を筆頭に、フィジカルであればジャンボ鶴田が最強とか、ケンカであれば前田日明だろうといった名前も挙がる。あるいは「プロレス最強」を打ち砕いたヒクソン・グレイシーも一時期よく「世界最強」に挙がっていた名だ。
 
 正直、今回の内容に関しては『刃牙』(という格闘まんが)と重複するような項目も多いので、ある意味、語り尽くされている内容ではある(逆に言えば『刃牙』を読めば「世界最強」論は大体、満足できる)。
 それでも、時代が変われど、年代が変われど、競技が進化しようと、科学的に格闘技が解明されようとも、男子の妄想の中から「世界最強」がなくなることはない。
 これはもう説明のしようがないのだが、男子の内側には「世界最強」が普遍的なテーマの一つとして存在しているのである。
 
 最初の「世界最強」妄想
 
 もう一つ、この妄想に特徴的なポイントがあるとすれば、「世界最強」を妄想する男子には区別がない、ということだ。ヤンキーもオタクも、陽キャも陰キャも、老いも若きも、「男子」であった者はほぼ必ずこの「世界最強」というテーマを妄想したことがあるはずだ。
 強い者はより強くなった自分を夢想し、ひ弱な者であっても自分が某かのチャンピオンになったらという妄想は一度は経験があるだろう。あるいは異世界で特殊能力を得て無双したりするシチュエーションも、一種の「世界最強」へのあこがれである。
 そういう妄想は次第に「現実」との折り合いの中で縮小し、その後に残滓として登場するのが「誰が世界最強なのか」という妄想なのである。
 
 当然、現在進行形で競技として格闘技をやっている者はこんな妄想はしない。
 あくまで他人事、あるいは「世界最強」へのあこがれだけが残っている者が語るテーマだ。
 無責任であればあるほど妄想は楽しい。現実に起こり得ないからこそ、妄想の幅は広がっていくのである。現実的に手の届く範囲の妄想などする意味がない。
「世界最強」を目指したことのない(あるいは挫折した)男子がする妄想が「世界最強」妄想なのである。
 
 だからというわけでもないが、私は男子で格闘技が「嫌い」という者を見たことがない。
「興味がない」は他のスポーツと同様に一定数、存在する。
 先述の『刃牙』でも語られている内容だが、男子であれば誰しも一度は己が「世界最強」である姿を夢想する。
 マッチョな肉体と、ケンカという生存競争としての強さに憧れを抱くことを男子は否定できない。
 それがただの暴力だとわかっていても、である。
 それはある種、知性を持った「雄」としての本能なのかもしれない。結局、どれだけ人生経験を積み重ねても「ケンカが強い」ことはステータスとして存在する。
 だが、当たり前のことだが、現実の暴力に耽溺し続ける者はそう多くない。
 男子にとって暴力と決別することは、ある種「大人になること」への通過儀礼なのである。
 
 だから「誰が世界最強なのか」というテーマで、暴力を行使する代替行為として、自分の代わりに「幻想の世界最強」を戦わせるのである。
 
                           (後編に続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?