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プロレスから学ぶ物語論〜現実と虚構の狭間の物語 閑話01b共通幻想理論〜プロレスラーはなぜ「世界最強」を求められたのか。後編

 「世界最強」論
 
 今でこそ競技が違う選手に「世界最強」を求めるのはナンセンスだと認知されているが、格闘家やプロレスラーの強さを「フィジカル」でしか推し測れなかった時代の産物である。
 要するに「肉体がより大きい奴が強いよね」というイメージに基づく理屈なわけだ。
 この論拠では技術論が一切無視されているので、同じ競技の階級制とは似て非なる考え方なのだが、一般的なイメージでも「体重差」は強さの指針にはなってしまう。
 
 真正面から向かい合えば、身体の大きな奴が圧倒的に有利だ。大きさはそれだけで相手に恐怖を感じさせるし、慣れてなければ攻撃を受けて硬直せずにいられるのは難しい(人間の一番原始的な防御方法は「身を固める」である)。「躱す」という行為は格闘技で観るほど簡単なものではない。
 
 一時期の「ボクシングは寝かせて(寝て)しまえば何もできない」という考え方も同様だ。「寝かせる」までの攻防や、打撃をかいくぐることの困難さが一切考慮されていない。賢しい格闘技おたくの知識を披露するなら、攻防の「際」の重要性があまり語られていなかった時代だ。

 現在のUFCや一時期のPRIDEのような「総合格闘技」の認知度も低く、共通言語的な技術論も他の格闘技の知識も乏しく、競技の違う選手を比べる判断材料が極端に少なかった。
 だから「世界最強」論は、論だけがどんどん肥大化していったのである。その意味ではSNSの進化は情報という技術論の流布だけでなく、世界最強という「幻想」の衰退にも一役買っていたといえる。
 
 プロレスが掲げた「世界最強」
 
 では「世界最強が幻想である」と考えた時、そこに多くのファンが固執したポイントはどこにあるのか。
 一つは先述の「身体の大きな人間」という視覚的な意味合いでの「世界最強」論。
 もう一つは「幻想」を抱かせる「カリスマ性」である。
 
 例えばボクシングの世界チャンピオンでマイク・タイソンよりKO率や勝率の高いボクサーは数多くいるという。だが、世界最強に挙げられるボクサーはマイク・タイソンが圧倒的に多い。もちろんボクシング関係者から見た時の「総合的」な強さでもあるのだろうが、タイソンの人気やカリスマ性も否定できないところだろう。
 
 この「幻想」を抱かせるカリスマ性と「プロレス」は、非常に親和性が高かった。
 実際の興行で「世界最強」と銘打っていたイメージ戦略の影響も大きいだろう。
「幻想」をプロレスの側から肥大させていったのは間違いない。
 だが実は「世界最強」と「プロレスとしてのおもしろさ」が真逆にあったことは、今となっては皮肉以外の何ものでもない。
 結論から言ってしまえば、「世界最強」をうたうことと、プロレスの評価基準の一つである「名勝負」はイコールにならないのである。
 
 「世界最強」の論拠
 
 例えば、プロレスと格闘技のクロスポイント的な試合として有名なアントニオ猪木─モハメド・アリ戦は「(勝ち負けのみにこだわる)リアルな異種格闘技戦はつまらない」という部分があからさまにクローズアップされてしまった。リアルファイトは「勝つこと」「負けないこと」を突き詰めると、途端に試合としてはおもしろくなくなってしまう。リスクのある行動をとるリスクが極端に大きくなってしまうのである。格闘技で「塩漬け」という言葉が生まれてしまう要因でもある。
 
 格闘技における「KOで勝つ」発言に代表されるいわゆるビッグマウス的な発言も、本来、リアルファイトの延長線上にはないものだ。試合前に何を語ろうが、直接の勝敗には影響しない。挑発という意味合いにおいては心理戦と言えなくもないのだが、やはり「ビッグマウス」はエンターテイメント色の方が強い。
 
 同時に「世界最強」を議論する時、なぜか生涯戦績は議論の遡上にあまり挙がらない。競技が違うから参考にならないと言ってしまえばそれまでだが、それならそもそも別々の競技のチャンピオンを集めて世界最強を決めるという議論そのものがナンセンスである。

 それは「生涯成績」が記録以上に印象に残らないこととも関係している。必ず「ベストバウト」的なピックアップのされ方をしてしまう。勝敗のアドバンテージはその競技の選手としては誇るべきことなのだが、「名勝負」と呼ばれるものはたった一試合でも記憶に残ってしまう。
 そして、その「記憶に残った一試合」は「幻想」を生み出しやすい。
 
 プロレスラーに求められた「最強」幻想
 
 プロレスは勝敗以外に、試合の内外でのトラッシュトークやギミックが豊富であるが故に「記憶」に残りやすい。
 ボクシングの世界チャンピオンより、アントニオ猪木やジャイアント馬場の方が一般人にとっては知られる名であったのはそれ故だ。ゴールデンタイムのテレビ中継の影響も大きいだろう。
「燃える闘魂」というキャッチフレーズ、日本人離れした巨体、それらのわかりやすくパッケージ化された情報も印象に残りやすかった。
 そして「知られている」ということは、より「幻想」を生みやすくなる。
 
 世紀の凡戦と酷評された猪木─アリの試合内容は、「勝ち負け」が最も重視されるリアルファイトを突き詰めた結果だ(プロレス的な内幕は置いておいて)。それはボクサーにボクシング以外のルールで試合をさせてもつまらないのと同じで、実は「勝ち負け」に価値が生まれるのは「カテゴライズされた競技」の枠があることが大前提になる。

 野球には野球の、サッカーにはサッカーの、プロレスにはプロレスのルールがあるからこそ、人は楽しむことができる。
 
 本質的な意味で「無手の世界最強」を決めるのであれば、素手で人を殺せる技術を持っている者が一番強い。だが本物の人殺しの技術など見世物にするものではないし、それはもはや「競技」の枠ですらない。
 
 だから皮肉なことに「勝ち負け」の先にある「世界最強」をプロレスがうたった瞬間、それは「幻想の称号」だと自認しているようなものなのである。
 ルールの枠内であればこそ「勝敗」に意味があるに、プロレスがプロレスの枠を自ら超えてしまったのである。観客も「プロレスラー」がプロレスの枠を超えられるという「幻想」を抱いてしまった。

 そういう世界最強へのナンセンスさが語られていなかった時代、男子が妄想していた「世界最強」のように、プロレスファンが自身の叶わぬ妄想の代替行為として無意識に仮託してしまったのが「世界最強としてのプロレスラー」の幻想だったのである。

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