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プロレスから学ぶ物語論〜現実と虚構の狭間の物語 05こけしis happy〜自分だけの「名」を付けることで「主人公」になる。

 「生え抜き」と「外様」
 
 本間朋晃というレスラーがいる。
 プロレスをあまり知らない人にとっては天龍、長州に次いで「声が聞きとりにくい」レスラーとして認知されているかもしれない。あるいは「スイーツ真壁」の相方と覚えている人もいるかもしれない。聞きとりづらい声と愛嬌のあるキャラクター、それが今の本間選手の印象だろう。
 その本間選手は所属する新日本プロレスにおいて「外様」のレスラーである。「生え抜き」が優遇されることはどのスポーツでもどんな会社でも珍しくはないのかもしれないが、一時期の新日本は特に「外様」のレスラーに厳しく、興行の前半に試合が組まれることが多かった。本間選手にもレスラーとしての魅力をそれほど感じてはいなかった。
 近代のプロレスでは個性的な技を作り出すことも難しく、どれだけ危険な角度で相手を落とすかの競争になっていた時期もあった。正直、外様のレスラーはどれだけ知名度があろうと各団体の生え抜き選手の踏み台でしかなかった。たとえ有名なレスラーであってもその団体にとって「外様」であれば、挑戦者になることはあってもチャンピオンにはなれない、チャンピオンになっても防衛できない、そんな印象が強かった。
 そういう中で、本間選手は自分が使うダイビングヘッドバットという技に「こけし」と名を付けた。
 少し解説すると、本間選手のダイビングヘッドは首を傾けた姿勢で直立不動で、どこかコミカルに「こけし」が倒れ込んで頭突きをしているように見える技である。そこからの名付けである。
 これが思いの外、観客の心を掴んだ。
 本間選手をデビューから追いかけていたわけではないので、いつから自身の技を「こけし」と呼んでいたのかはわからない。確か大日本プロレス出身で…という程度の個人情報しか持ち合わせていなかった(今回のテーマを書くにあたり、わざとwiki等で確認していない)。ただ、本間選手が新日本でブレイクしたのは、本間選手のダイビングヘッドバットが「こけし」という名称であると認知されてからだ。
 
 プロレスラーが輝く時
 
 どんなプロレスラーでも三度、輝く瞬間がある。
 それは凱旋帰国から帰ってきた時、チャンピオンやリーグ戦・トーナメントの覇者になった時、そして引退する時だ。
 もちろん所属する団体の規模やレスラー個人の資質でこれらは大きく変化する。この3つを経験しないレスラーも数多くいるし、怪我で日の目を見ないまま引退していく選手も多い。
 凱旋帰国は団体の若手でも有望株の選手だけだし、チャンピオンともなればタッグも含め、ほんの一握りの選手だ。引退試合ができる選手は人気や実力はもちろん「引退する年齢までプロレスを続けられた」というフィジカルの強さが求められる。これが一番、難しい。公言していない選手でも、プロレスラーはほとんどが身体のどこかしらに重大な故障を抱えている。
 当然、その団体にとっての「外様」のレスラーはこのレールには乗せてもらえない。
 そういう状況下で本間朋晃というレスラーが稀有なのは、上記のどれにも当てはまらない状態で、ある日突然、光り輝き出したことだ。「ある日突然」とはさすがに比喩であるが、きっかけというか、分岐点がわかりやすく存在する。
 それが自分が使う技を「名付けた」ことだ。
 ダイビングヘッドバットに「こけし」と名付けることで「その他大勢ではない一人のレスラー」(毎回毎回失礼な物言いになってしまうが)として注目されるようになったのだ。私が認識していなかっただけという可能性もあるので、技名として浸透した、という状態と考えてもらってかまわない。
 加えて「本間のこけしが成功すれば幸せになる」という成功率の低い必殺技というギミックも後押しして、こけしが成功することを願う声援、単純に「こけし」と叫びたい声援、そして何より試合中にこれから「こけし」をくり出すというムーブと、その成否を期待する観客との一体感を本間選手は手に入れたのである。
 
 プロレスラーの代名詞
 
 ほとんどのレスラーには固有のフィニッシングホールド(決め技)がある。それが決まるか決まらないか、通じるか通じないかがプロレスの試合の一つの流れとして存在する。逆に言えば「決め技」のないレスラーはまだ「プロレスラー」ではないのだ。有名選手、人気選手ともなればそれこそ「代名詞」が存在する。
 主に「新日本プロレス」の系譜ではレスラーに付される「形容詞」が代名詞になることが多い。
 アントニオ猪木の「燃える闘魂」しかり、長州力の「革命戦士」、橋本真也の「破壊王」、近年ではオカダ・カズチカの「レインメーカー」がわかりやすいだろう。外国人レスラーの代名詞にも「皇帝戦士」や「人間山脈」などの「形容詞」が多く使われる。
 反対に「全日本プロレス」の系譜ではレスラーの使う技が代名詞になることが多い。
 ジャイアント馬場の「十六文キック」に始まり、ジャンボ鶴田の「バックドロップ」「ジャンピングニー」、三沢光晴の「エルボー」(余談だが、プロレスの基本技の一つである「エルボー」が代名詞になること自体、三沢選手の凄さが垣間見れる)、小橋建太の「ラリアット」、秋山準の「エクスプロイダー」など、技名が選手とイコールになる場合が多い。
 そう分類してみると、本間選手の「こけし」はこの系譜のどちらにも属していないことがわかる。
 実はプロレス技の名前に「固有名」を付けるのは極めて「物語的」なのだ。ベタ過ぎる例えで申し訳ないが、『ドラゴンボール』の「かめはめ波」と同じ系譜になる(『鬼滅』や『呪術』はそれほど詳しくないのでご容赦願いたい)。
 
 主人公は自分に「名」を付ける
 
 ここまでくれば、大体どういう屁理屈で「プロレス」と「物語論」をこじつけようとしているか、おわかりになるだろう。
 プロレスの代名詞と同じように、「物語」のキャラクターたちの行動にも某かの「名前」が付されている。バトルものの物語であれば必殺技が厨二っぽくなるのはもちろん、技名を叫びながらの攻撃にも違和感はない。比較的現実に即した設定のスポーツ系の物語においても特殊な技名が多数存在する。
 そうして「名付け」られたものは、技名そのものの印象ではなく、そのキャラクターの「固有性」の証しとなる。
 例えば「○○斬り」と技名を叫んだとしても、印象に残るのは「(○○斬りを使う)キャラクター」になる。この技はどのキャラクターが使用したものだったかとはあまりならない。忘れる場合はキャラクターと一緒に技名も忘れてしまう。
 そして固有の技名を持つキャラクターはその多くが「モブ」ではなく「ネームド」、あるいは「主人公」である(挿話の主役になれるという意味も含む)。固有の技名さえあれば「モブ」であっても後々仲間になったり敵対したりすることも可能だ。何かに「名付け」をした瞬間、あるいはすでに「名付け」られている場合、そのキャラクターは「物語の主人公」になれるのである。
 本間選手の場合、自分の技名に「こけし」と名付けた瞬間、物語論的には「主人公」の側に属したことになるのだ。主人公とは何かを成すから主人公なのではなく、自分の何かに「名」を付けたものが「主人公」になるのである。
 人が誰かを「主人公」だと感じるのは、その多くが「何かを成す前」のキャラクターである。実は結果や実績や能力で「主人公」になるわけではないのである。
 その意味で「名」を付けられた瞬間、誰しもが「主人公」になれるのである。

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