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プロレスから学ぶ物語論〜現実と虚構の狭間の物語 02「キャラクター」はマスクマンが教えてくれる〜歴史を考えることで人物造形に深みが出る。

 プロレスにおける「キャラクター」
 
 #00でも少し触れたが、メキシコの「ルチャ・リブレ」というプロレスから「キャラクターとは何なのか」を学ぶことができる。だがその前に、プロレスにおける「キャラクター」とは何なのか、それを少し掘り下げていく。
 そもそもフィクションにおける「キャラクター」と、プロレスのおける「キャラクター」に単語の使い方として大きな差はない。端的に言ってしまえば、プロレスにおける「キャラクター」とはレスラー個人の「特徴」や「個性」を指し示す。明確にフィクションと違う部分があるとすれば、それはプロレス特有の「不文律」や「暗黙の了解」に属する部分に由来する、ということだ。
 今回はそのプロレスの曖昧さの象徴のような単語から「キャラクター」のみを抽出して説明してみる。
 明確に違う部分、と表現したが、むしろ「格闘技」と「プロレス」の違いと表現した方がいいかもしれない。プロレスの「キャラクター」は、実はフィクションの「キャラクター」の方に親和性がある。
 当り前だが「格闘技」の場合、「キャラクター」はあくまで選手の付属品でしかなく、実際のファイトスタイルにまでその「キャラクター」が及ぶことは少ない。ヤンキーだからビッグマウスだから謙虚だからストイックだからといった「キャラクター」でファイトスタイルが変わるわけではない。K─1や総合格闘技で活躍したミルコ・クロコップの代名詞である「左ハイキック」のような例はあるが、あくまで「勝利」を追求していった結果、そのファイトスタイルになったに過ぎない。本来、試合内容とキャラクターはイコールにはならないのだ。常に一本を狙いにいく、どんな形でも「勝利」を優先する、ぐらいの違いしかない。
 だがプロレスはレスラー個人の「キャラクター」がファイトスタイルにも影響してくる。

 プロレスは「魅せる」格闘技

 プロレスで一番わかりやすい「キャラクター」といえば、「ベビーフェイス」と「ヒール」である。
 ファイトスタイルも明確に違うことが多く、ベビーであれば凶器や反則攻撃はもちろん使わないし、見た目が良くないからとストンピング(踏みつけ)ですら敬遠される場合がある。ヒールであればコーナーポストからの「飛び技」を使うレスラーは少ない。「華やか」な技をヒールは使わないのだ。相手レスラーの「苦悶の表情」が見えるような関節技や、力強さをアピールするような投げ技、派手さよりも「痛み」が伝わるような技が多い。
 そしてもう一つ、プロレスにおける「キャラクター」の最大の特徴は「同じ技を使わない」ことにある。
 どのレスラーにも共通する技はあるし、厳密に線引きできるわけではないのだが、これは「その選手しか行わないムーヴ(技に入るまでのモーション)の打撃・投げ技・関節技」に該当する「技」である。
 同じ技を使わないからこそ、後の章で説明することになるが、プロレス実況における「オキテ破り」という言葉の使い方も生まれる。当り前のことだが、本来、勝負に徹するなら「相手の技は使わない」などという行為には意味がない。ハイキックを使われたから、腕ひしぎ逆十字を使われたからといって、それを「俺の技だ」と主張する格闘家はいない。
 この「同じ技を使わない」も、#00で触れたような「熱狂(応援)させるための装置」の一つである。
 戦う選手によって使う技が違う方が片方を応援しやすいし、ベビーとヒールの対立軸もわかりやすくなる。
 何より平均8試合といわれる一つの興行の中では、見慣れている観客でもなければ途中で疲れて飽きてしまう。使う技が選手によって違う方が観ている方は飽きづらいという現実的な問題でもあるのだ。
 
 「ルチャ・リブレ」のキャラクター
 
 前置きが長くなってしまったが、この「プロレスにおけるキャラクター」にはもう一つ重要な要素がある。それは、そのキャラクターの「変遷」や「歴史」である。
 その近代プロレスの「キャラクターの元祖」とでも言うべきものが、メキシコのプロレス「ルチャ・リブレ」なのである。
 世界中で文化や思想にまで「プロレス」というものが根ざしている国は恐らくメキシコだけであろう。メキシコ人にとって「ルチャ・リブレ」とは国技ですらない。自分たちの国そのものの象徴なのだ。
 ルチャ・リブレという形式のプロレスが産まれたのは、メキシコがスペインの植民地であった時代にまで遡る。当時のメキシコは植民地化していたため、自国の伝統や文化を伝えることすら禁止されていた。そのため人々は摘発から逃れるためにマスクを被って正体を隠し、自国の文化や風俗を継承し、自分たちの「歴史」を守ろうとしたのだ。だから「ルチャ・リブレ」では、正義の側のレスラーがマスクを被り(摘発を逃れるために素顔を隠すメキシコ人)、悪役のレスラーが素顔(植民地支配をしていたスペイン人)である必要があった。ルチャというプロレスの対立構造そのものがメキシコの歴史なのである。
 マスクを付けていることにキャラ付け以上の付加価値がついているため、「マスカラコントラマスカラ(敗者マスク剥ぎマッチ)」や「マスカラコントラカベジェラ(敗者マスク剥ぎor髪切り)」が一つの試合形式として成立する。『スーパーマン』や『スパイダーマン』でも正体がバレた時は一大事である、と表現すればわかりやすいだろうか。
 とあるドキュメンタリー番組で、家族の前ですらマスクを脱がない覆面レスラーとして活動するお母さんの映像を観たことがある。ルチャにとってマスクは正義の象徴であり、メキシコ人の誇りでもある。それをどういう理由かは忘れてしまったが、マスクを脱がなければならない状況になって、そのことを家族に話している時、子供たちがこぞって泣き出すという場面が放送された。語弊がある言い方になってしまうが、たかだか「プロレスの一キャラクター」としてのマスクマンである。
 しかし、メキシコの人たちにとっては違う。
「ルチャのマスク」とは人々の正義の象徴であり、自分たちが自分たちの国を勝ちとった「歴史」そのものなのである。

 感情移入できる「キャラクター」
 
 メキシコのルチャのように「キャラクター」がその国の歴史に根ざしていたりするケースはさすがに稀だが、キャラクターそのものの魅力もそうだが、その「キャラクター」のバックボーンを知っているか否かで大きく印象が変わってくる。逆に言えば、バックボーンを表現したり設定したりすることでより観客を読者を没入させることができる。
 それは現実の選手の「歴史」であったり、試合中のファイトスタイルの「変遷」であったり、様々な角度からアプローチすることできる。
 
 負け続けていた選手がようやくチャンピオンベルトを腰に巻いた瞬間。
 長期欠場していた選手が復帰した試合。
 ベビーからヒールになったことで封印していた技を使って勝利。
 肉体が衰えてしまって全盛期の動きができないレスラーがもう一花咲かせようと奮闘する試合。
 
 など、その選手の「歴史」や「変遷」を知っていることで試合の勝ち負けとはまた別の「感動」が生まれる。
 物語的な言い方になってしまうが、ある種、観ている側が望んでいるような「展開」になるである。
 最近で言えば、新日本の永田選手と鈴木選手の「和解」など、当人たちが学生時代から嫌いあっているという「歴史」を理解していなければ何の感慨も湧かないだろう。だが、そのことを知っていれば、当人たち以上にこみ上げてくるものがあったりする。
 プロレスは「試合の外側」を知ることで楽しみ方が増えるスポーツなのである。
 それは「キャラクター」の「歴史」を理解したり考えたりすることとイコールになったりもする。
 短編と長編のフィクションでは表現できる内容が違うように、選手一人一人の「キャラクター」に注目できるのも年間百何十試合も行うプロレスならではの楽しみ方ではある。


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