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過去の私を、超えられなくても。

押し入れの掃除をしていたら、昔つらつら書いていたノートが出てきた。

それは高校から大学にかけて使っていたもので、日記だったり、エッセイだったり、小説だったり、ただの散文だったりする、ただ「書きたいと思ったことを書く」だけのノートである。
今ではパソコンを使っているが、昔はシャープペンシルでびっしり書く方が好きで、ただただ熱心にノートに向かっていた。
最近めっきりしていなかったので、懐かしくてパラパラと読んでみた。

読んでみると、私が書いたはずのものなのに、すっかり忘れていて新鮮に楽しめる。
そして一部のものはハッとするほど瑞々しくて、10代から20代にかけての「私」が見た世界を、ただ真っ直ぐ、素直に表現していた。

ここに、過去の「私」がいる。

粗野で、荒々しくて、でも若さのカタマリのようなぴかぴかした感性を、一冊のノートにぶつけている「私」が。

今の私が、これを同じものを書けと言われたら、おそらく書けない。

感性の上に経験という名の恐れが積もり、落ち着きという名の保身が入り、こんな風に純粋な形で表現するのは勇気がいる。
「大好き!」「キライ!」と直接的に表現する年齢は過ぎ、「他と比較すれば好ましく感じる」「悪くはないが、心が惹かれない」などとでも言ってしまいそうな現状だ。
感性の鋭さ、また感情と表現が直結しているという点において、「今の私」は「過去の私」の足下にも及ばない。

私は、過去を、超えられない……?

それは、ある面においては、だ。

過去の私は、視野が狭く、それゆえに自分の世界観イコール世界そのものと感じている面もある。
だからこそ無敵なのだが、現実はそうではない。
私が好きなものは、隣の人が好きかどうかは分からないし、私が嫌いなものが、むこうの人は大好きだったりする。
人は多様で、世界は広くて、でも私は一人であり、皆も一人だ。

そういうことを考えられるのは、やはり「今の私」だからである。
感性そのものはきっと失ってはないけれど、とにかくタマネギみたいにどんどん分厚い皮があるもんだから、そこにたどり着くまでには時間がかかる。

だからきっと、昔の私と、今の私を融合させていくのがいいのだろう。

慎重でありながら、ときに大胆に。鋭さと、豊かさと、広い視野をもちながらも一歩踏み出す勇気。


そういえば、小5の頃から日記を書いているのだが、そのとき誰かに言われた言葉があった。

「今の私は、いずれ忘れてしまうもの。だからこそ、今思ったことを書いておくことが、遠い未来の私の糧になる」


押し入れから出てきたノートは、デスク上の本立てに収まった。
伸ばせば手が届くところに、過去の私がいる。
忘れても、いつでも会える。

過去の私。ありがとう。
今の私も、過去の私に負けないように、頑張るね。


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