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「全てが幻である」ことを思い出させてくれる読書

変な時間に寝落ちしてしまい、何だか落ち着かなくて、こんな時間にnoteを書いております。

今日(昨日?)はびっくりするくらい色々とスムーズに出来た。
いや繁忙期かつ欠員過多でタスク自体は全然思うようにはいかなかったんだけど、これが違うだけで180°変わるピースが順調だった。
人間関係である。クセの強いお客に会うこともなく、むしろこちらを気遣ってくれる有難い方までいて、普段怖い先輩の態度が柔らかく、普段あんまり話さない人と笑い合った。
振り返ると、順調すぎてちょっと怖い。思わず「何故こんなに順調だったのか?」と理由を探ろうとしてしまう。人も世界も変わるから、大なり小なり変化があるのは当たり前であって、そんなものを探るのは不毛だとは分かるのだけれど。

今日一日のお供にしていた本は、しんめいPさんの『自分とか、ないから。』

この本、「無我」についての説明が上手すぎて、感激してしまった。
大学時代、恩師のおかげで「原始仏教」に出会い、そのシンプルなのに論理的で、心の根本的な解決になりうる理に感動したにも関わらず、私が最後までピンと来れなかったのが、「無我」である。
「無我」は読んで字のごとく、「「自分」などない」ということ。
「え?今こうして考えたり、寝みーって思ったり、note書いたりしてるのは自分じゃないの?」
って思うが、人間の細胞は日毎徐々に入れ替わっているし、ここに書いていることも、今日の「周り(のあらゆる要素)から刺激を受けて」湧いた考えや思いを記している。
少しネタバレになってしまうが、本書で印象深かったのは、「われわれは、お互いの、「息」や、なんなら「屁」を、呼吸のたびに、すいこみ、身体に吸収しあっている。」
あんまり想像したくないが、実際その通りで、私たちの全ては日々あらゆるものと交換し合って、変化していることを、この強烈な文に再度教えて貰えた。

この本のおかげで、今日あった「喜び」にも、執着しないでいられそうな気がして、有り難い。
日々変わり行くものに固執してしまうこと程、苦しいことはないと思うので、「ラッキーだった」くらいに考えられるのが、心には良いと思う。ある意味、「明日は明日の風が吹く」と考えられる気がする。
また、別の私の好きなエッセイに、「他人はフィクション」という言葉がある。
私たちは、あくまでその人の「「私」から見た側面」しか知らない。まして、その側面は人によって解釈が異なる。ある人にとっての「明るい人」が、ある人にとっての「やかましい人」になるかもしれない。

人は、常に幻の中に生きているんだなぁと、そう思うと、知らず目の前のものを絶対視して焦る気持ちが、ちょっと楽になる気がします。

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