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異能β-4 Hなハート
1965年、HONDAが1.5ℓF-1の最終戦で記念すべき1勝目を揚げた。
翌66年、エンジンが1.5ℓから3ℓに変更、当然、以前から3ℓエンジンを持っているFerrariが有利であったのは言うまでもない。65年の最良(シリーズチャンピョンで多数のチームが使用)であるコベントリークライマックスは3ℓエンジンを作るつもりはなくレース活動撤退、タスマンシリーズで用いた2ℓ版では競争力が低かった。後はオーストラリアのRepcoやイタリアのMaseratiを使用するチームが有ったが玉石混淆、その中でBRMは65年まで使用していた90度のV8エンジンを180度水平対向として2段に重ねると言う奇想天外なエンジンを開発した。
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66年の開幕戦はMonaco GP、BRMチームはH16を積むBRM P83が間に合わず、タスマン用の2ℓV8エンジンを用いたP261で参戦。Jackie Stewartが予選3位で決勝1位となったのは、彼の腕と狭く低速のMonacoならではの結果。以後もオランダやドイツで入賞するものの、残り3戦はP83で参戦、結果は全てDNFであった。
このH16エンジンはLotusにも提供され、Jim ClarkのLotus 43に搭載、米国 GPでH16ただ1回の優勝を遂げている(このレースでBRMチームからはGraham Hillが参戦しているがDNF)。
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翌67年、G.HillがLotusチームに移籍し、ClarkとのジョイントNo.1となった。
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BRMチームはJ. StewartがNo.1となり奮闘したが、高速コースであるBelgium GPで予選6位・決勝2位が最高の成績(このBelgium GPの優勝はDan GurneyのEagle-Weslake V12で、この車での唯一の優勝)、次の仏国GPで3位。BRMチームのMike Spenceは手堅く5位4回と6位1回、両者(車)とも入賞かDNFかとエンジントラブルが原因の様だ。
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67年のP83はラジエーターパイプが車体の外を通る、
手前のP115は空気抵抗を改良、車体や懸架装置の軽量化を図ったが予選3位で決勝DNF
さて、このエンジン、馬力はあるが(当時推定400馬力)複雑。全長を短くすべく(大昔はV型16気筒なんて長いエンジンもあった)8気筒を2段にしたためクランクシャフトが上下にあり、重心が上がる、その上下の動きを均等にするためメカニズムが複雑になる。エンジンの上下に排気管がくるため、特に下の取り回しが難しい等々色々問題点があった。しかしBelgiumの様な超高速サーキットでは本領発揮(H16は2位と5位を獲得)(1位もV12の車)。
LotusのColin ChapmanはこれならIndy 500でも活かせるのではないかと考え、H16を4.3ℓに拡大しLotus 42に載せようと計画したが結局完成せず(Lotus42のシャーシはFord用の42 FとBRM用の42 Bの2種があった)お蔵入り。
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現在のF-1は規制が厳しく(価格高騰の影響で仕方がないともいえるが)、予選で上位につければ、その後は列車道の様な展開で詰まらない(自分的には)、60-70年頃は最後の1周で燃料が切れたり、エンジンが壊れたりと目が離せない、このH16の様な自由度が高い規則(Can Amが詰まらなくなったのも規則が厳しくなり、自由度が下がったのも一因)の下で、レースを見たいものだ。
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