昭和レトロとは定義可能か?
※-1 昭和の時代に起きたもっとも大きな事件(出来事)は,太平洋戦争(大東亜戦争)であったのではなかったか
ネット上に出ている「昭和レトロとは,ナンゾヤ」という定義というか,あるいは主張というべきか,なにかフワフワしていてつかみどころがないようなこの〈ことば〉が,だいぶ以前からなんとはなしに,はたしてその実体がありえたかについてすら,これがあまりにも自明かつしごく当然であるかのように使われ,語られてきた。
本ブログは以前,「元号『令和』などで時代を区切る『摩訶不思議な歴史感覚』に疑問を抱かぬこの国の民たち,天皇は本当に国民・大衆の象徴でありえたのか?」『現代日本社会の諸相』2023年10月4日 12:47,https://note.com/brainy_turntable/n/n5d4d88238b95 の記述で若干,関連する議論をする機会があった。
なお,前段のその2023年10月4日の記述からは,本日の論旨に突き合わせてとなれば,行論上好都合に適する記述があり,本稿における記述として,その一部分だけでも転載したいと思っていたが,本日の記述そのものを書いていくとけっこうな字数になったので,その転載は止めることにした。そちらに興味ある人は,前段のリンク先・住所をクリックして読んでほしいとことろと希望する。
さて,ネット上に説明されている「昭和レトロ」の定義的な説明には,たとえば,こういうものがある。
昭和の時代に天皇であった人物は裕仁天皇であり,生死年は1901年から1989年までであった。この年代の人間としては長寿であったが,その死にぎわの病状変異をめぐる世間の大騒ぎぶりは,尋常ならざるものが記録されていた。
敗戦となった時期,彼は「自分は現人神ではない」と,敗戦直後のどさくさのなかではつぶやいていたものの(『人間宣言』のことで,次段で触れる),自分が神武天皇の直系に属すること,つまりその万世一系の子孫(むろん男系の)であると信じていたことは事実であった。
1946年1月1日に発表されたその「人間宣言」,つまり,連合国(とはいってもアメリ軍が主体で一部イギリス軍も含まれた)占領下の日本で,昭和天皇が発した「詔書の俗称」の正式名称は,つまり,新日本建設に関する詔書の名称は
「新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」
であった。
まともに日本の歴史を研究している専門家であれば,神武天皇が架空の人物である「事実」を認めるのは当然にしても,「万世一系のそれも神武天皇の子孫」になるのが自分だといったごとき裕仁氏の歴史意識は,「神話物語」の舞台でなければとうてい吐けなかったセリフである。
民主主義的な憲法だとされた日本国憲法は,1946年10月29日に成立(枢密院可決,昭和天皇裁可)し,1947年5月3日に施行されていた。
それに前後して,第2次大戦後,連合国軍が日本占領中に設置したGHQ(General Headquarters,連合国軍最高司令官総司令部のことで,とくに総司令部を指し,マッカーサーを最高司令官に置いた占領政策本部)が,日本政府を支配・統治する占領体制の頂点に位置していた。日本が独立するのは,1952年4月28日,サンフランシスコ講和条約発効になったときである。
その時期まで,日本をなるべくアメリカの思いのままになる国柄に変更(脱皮)させてきた「歴史の事実」は,「対米服属国家体制」を至高とする外務省官僚たちの政治秩序意識としてみれば,これは具体的には「外務省の事務次官よりも駐米日本大使のほうが格上」,すなわち外務省の双六では最高位である事実によっても確認できる。
もとはといえば,敗戦後史のなかでの昭和天皇は,日本国憲法内の「自身の地位が象徴天皇と位置づけられている立場」をわきまえずに,アメリカ側に対して裏舞台から「自分の意志」を必死になって伝え,それなりに反映させることできた。
21世紀のいまにおいても「東京都のど真ん中」にアメリカ軍専用のヘリポートがあったりもして,だからこの場所を足場にしてなのだが,トランプ以来のアメリカ大統領は羽田空港からではなく,そのヘリポートがある赤坂プレスセンターから日本(国?)に出ばりだす始末になっている。
すなわち,日本がアメリカの1州であるかのように,否,「アメリカのために存在してきた自治領:日本」であるかのように待遇してきた。
トランプが大統領として(一国の代表となって)初めて,赤坂プレスセンターの北側にある米軍専用ヘリポートから日本に入った。つまり,アメリカからそこへは,橫田基地経由で直接移動してきたという事実は,ごく当たりまえに考えるに,「これは日本という国の主権」など,まったく存在しないかのようにふるまう,きわめて無礼な行為であった。
つぎの『朝日新聞』のネット記事には,トランプが2015年5月25日に来日する前に,赤坂プレスセンターで米軍の軍用ヘリが事前に訓練していた様子を伝えていた。つぎのリンク先住所を参照されたい。動画も含まれている記事である。
ところが,大統領がバイデンに替わってからも,日本側からなにも苦情・抗議などなされないことをいいことに(当時の首相はあの安倍晋三君),いまではすっかり,アメリカの大統領のみならず高官(要人)たちは,当然のように「アメリカ⇔赤坂ヘリポート⇒日本東京都」の航路で米日間(など)をゆききしている。
そのような属国関係的な現実の様子がみごとなまで体現されている「日米関係」のありようは,まさに属国日本の真の姿を具体的に現わしている。
というしだいでもあって,類書はいくらでも存在するが,つぎのような書物まで出版されていた。アマゾン通販で紹介しておく。この山田 順『永久属国論-憲法・サンフランシスコ平和条約・日米安保の本質-』さくら舎,2017年という本の題名は,前段まで記述してきた事実を正直に表記していた。
※-2 昭和レトロとはなにを意味し,定義した(させた)つもりだったのか
この「昭和レトロ」という用語は,一般的に説明するとしたらどう説明されるのかと問うてみるに,※-1にそのひとつを例解として挙げてみたように,ともかく「ジャンルを問わず昭和のイメージを彷彿させるもの全般を呼称する」と定義されてもいた。
つまり,昭和の天皇となった裕仁氏が生きていた時代は,つまり,とくに天皇の地位に就いていた時期を通してだが,その「昭和のイメージを彷彿させるもの全般」が制作された時代になっていた(という解釈が可能かもしれない)。
となると,なんといっても1945年8月(9月)の旧大日本帝国「敗戦」という大事件は,わけても第1に挙げられるべき重要な出来事(画期)とみなされる点は,ごくごく自然な観察ある。
本ブログ内でも別にとりあげていたが,2022年4月中に,「プーチンのロシア」が始めたウクライナ侵略戦争においては,ウクライナ側がつぎのような情宣活動をしていた。
もっとも,ウクライナ側は,日本政府の抗議を受けてただちにその内容を変更させていた。けれども,この出来事が指摘していた内容そのものは,常識次元に属した歴史理解にかかわっていた。
この関連する解説記事は,内容はひとまず置くとして,つぎの昭和天皇の画像は,「とてもエラそうな表情に映っているモノ」を出していた。
ところで,以上のごとき議論を進めていくと,『「昭和レトロの特徴」はなにか』と問われたさいこれに対するに,いちがいに簡単には解答できなくないと感じるのが,自然な応答である。
それでも,前段で参照してみた,助川良子「昭和レトロとは」『アンティーク辞典』2024年2月26日(更新 3月18日)は,また別様にこうも説明していた。
助川良子はさらに,「昭和レトロと大正レトロの違い」にも言及していたが,足かけ15年の大正の時代に比べたら,その4倍以上の長期間になった昭和の時代であったのだから,その助川が触れた「昭和レトロ」は
「戦後の日本が落ち着いたころ,本格的に浸透していった洋風文化と古き良き人情を感じる時代背景があったからこそ懐かしさを感じます」という所感は,昭和にせよはたまた,別のいつかの時代・時期とするにせよ,昭和という時代そのもの「全体」をノッペラボウに表記することになりかねない。
つまり,「敗戦前の日本」であった時期の場合,「昭和の時代に入っても」「戦争ばかりやっていたこの国」の事情にあったゆえ,人びとが「落ち着いた」生活をできなかった時期である。
逆にいいかえれば,靖国神社の神門をくぐって続々と到来した亡霊たちのその合祀数がいよいよ多大になり,それこそウナギ登りに増えていった時代については,その「昭和レトロ」はみいだせないのか?
その種の疑念が湧き出てきて当然である。その敗戦前の昭和もまた「レトロ」になりうるはずだから,なにゆえ「戦後の日本が落ち着いたころ……」「それも平和で豊かになりつつあるころ……」からにしか「昭和という時代の懐かしさ」を求められないのだと想定したら,
それはそもそもオカシイ便宜的な決め方だと指摘されたとき,これに十全かつ適切に応えられる人はいない。
戦争の時代といえば,人びとが兄やオジや父を戦争に取られ,そのうちの多くの男たちが,しかも戦死者のうちの半分以上は「戦場・戦地において餓死」したにもかかわらず,それでも,この死んだ兵士たちの魂だけが「英霊」として待遇されるべく靖国の祭壇にまで帰ってきて合祀されるのだ,
という「国家神道」としての靖国神社の「死霊廟としての役目」の,そのたいそうヘンテコで奇妙なカラクリに関して指摘しておかねばならない点は,その総元締めの立場に居た人物が天皇であったという事実であり,そして,敗戦後79年が経ったいまでもその事実になんら変わりはない,という事情である。
ただし,昭和天皇以降,それぞれあとを継いで天皇になった明仁と徳仁は,靖国神社には「A級戦犯が合祀されている」事実を理由にして,絶対にあの九段下には出向かない。
彼ら天皇たちは,「表玄関の国家神道・神社」と位置づけられた「伊勢神宮」に対して「裏玄関の国家神道・神社」と位置づけられた「靖国神社」との組みあわせを,必らずいつかはとりもどしたいと念願している。
彼らがともかく,現状のごとき状態にある「裏・靖国神社」の祭殿に向かい親裁(参拝)などした分には,とくに天皇裕仁(故人になっていたにせよ)は,東京裁判によって死刑に処された東條英機など7人のA級戦犯に対して「頭を垂れる国家神道的な宗教行為」をおこなったことになるのだから,天皇家全身にとってみれば,そのように「完全なる自家否定」になってしまう行為は,昭和天皇(以下)がおこなうわけなど,絶対にありなかった。
またいってみれば「それ」では,敗戦した旧大日本帝国の元・大元帥をマッカーサーが生かしてくれ,日本を占領統治するために利用していたという点をめぐっての,その「内面におけるからくり:仕組」が,簡単に暴露されてしまうことになるからであった。
※-3「昭和館」という官僚天下り先における羽毛田信吾のぬるい活動ぶり,昭和レトロな時代感覚を情宣するこの機関の存在意義は,天皇裕仁をあえて関連づけない「昭和レトロもどきの面妖な時代解釈」
1)「〈あすへの話題〉昭和館 元宮内庁長官 羽毛田信吾」『日本経済新聞』2014年2月12日 15:30,https://www.nikkei.com/article/DGKDZO66692730S4A210C1MM0000/
a) ビルマ戦線の夫から妻への手紙。妻が送った我が子の写真に「回らない口で何か俺にいっている気がする」と喜び,残した家族のことをあれこれと気遣っている。展示ケースのなかの茶色に変色した紙面から時を超えて濃(こま)やかな愛情が伝わってくる。
いま,九段下の昭和館に勤務している。先の大戦中そして戦後,戦地に赴いた人たちはもとより,銃後の国民も,戦争で肉親を失った人たちをはじめいいしれぬ悲しみと苦しみを味わった。
昭和館は,戦中,戦後に国民が経験したさまざまな労苦を後世に伝えることを目的とした施設である。展示資料などを通して多くの人に戦争の悲惨さと平和の尊さを実感してもらえればと願っている。
戦後の復興を象徴する先の東京オリンピックでさえ,いまや,実体験は50代〔2024年なら60代〕以上の世代に限られる。敗戦直後の耐乏生活をしる人も少数派になりつつある。戦争の悲惨さや国民生活の苦しみの記憶が風化していくことが懸念される。かくいう私自身も戦争の記憶はなく,辛うじて戦後の配給や代用食の貧しい生活をしるに過ぎない。
昭和館には多数の小学生や中学生が見学に訪れる。子供たちが防空壕の模型をただ不思議な仕掛として眺め,手押しポンプによる水汲み体験にも体力テスト感覚で挑戦しているのではないかと心配になる。
彼ら「戦後をしらない子供たち」に当時の労苦を実感として伝えることは容易でない。しかし,子供達は,アンケートに対し,「展示を見て戦争は絶対してはいけないと思った」,「自分達の平和な暮らしが父母や祖父母の苦労の上に築かれたのだということが分かった」などと答えている。これらの回答を励みに,館の一層の充実を期している。(引用終わり)
b) しかし,そのまた以前の世代として昭和の時代に生まれていた子どもたち(つまり,ここでは,60歳台,70歳台以上の人びとのことが,もっぱら言及の対象になるが)自身が,昭和レトロに該当するその後の時期になってだが,「戦争を知らない子どもたち」(実はボクたち・私たち)の立場から,つぎのような歌を作り,歌い,はやらせた時代があった。
このようにも捕捉できる歴史の事実は,a) に紹介した程度の新聞記事からさらに,世間の深層(真相)にまでより広く深く関連づけたいと思ったさい,いったいどのような〈昭和歴史観〉が要求されるのか?
昭和レトロとはいっても,昭和の時期全体は「敗戦をはさんで実在していた」し,しかもその後においても,世代ごとに発生していた「決定的ともいえそうな〈断絶の介在〉」は,前段で説明のあった「昭和館の展示物」からだけで,本当に伝えられうるのか?
c)「 戦争を知らない子供たち 」( 北山 修 作詞,杉田二郎 作曲,1970年)について。
歌詞は前段に紹介してみたが,この歌は1970年8月23日,大阪万博でのコンサートで初めて歌われた。その模様がライブアルバム「戦争を知らない子供たち」として発売され,同年11月5日,「全日本アマチュア・フォーク・シンガーズ」名義でシングルカットされた。
翌年1971年2月5日には,ジローズの歌唱によるシングルが発売されると,オリコン最高11位,累計売上30万枚以上のヒット曲となった。
ジローズはこの年の第13回日本レコード大賞新人賞を,作詞を担当した北山 修は作詞賞を受賞した。
1972年公開の映画『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』では挿入歌として使用され,1973年には,この曲の歌詞を原案にした「同名の映画」が制作された。
d) 世はベトナム戦争の真っ最中であり(武力衝突開始 1960年,終結は 1975年。なお不正規戦争で宣戦もない),憲法の制約のある日本政府もアメリカ合衆国の戦争遂行に基地の提供といったかたちで協力していた。
日本国内でも,一部の文化人や学生を中心に,反戦平和運動は盛り上がりをみせていた。そのような中で発表されたこの曲は,日本における代表的な反戦歌となった。
もともと,歌詞が先にできていて,北山は真っ先に盟友加藤和彦に作曲してもらおうと思ったら,鼻で吹いて突っ返されてしまい,やむなく杉田二郎のもとにもっていったという(2002年11月17日のザ・フォーク・クルセダーズ新結成記念解散音楽會での北山の発言より)。
加藤とは逆に杉田は,北山の詞に素直に感動し,喜んで曲を付けたという。その後も北山自身,割り切れなさを感じることも多かったというこの歌詞に素直に曲を付け,胸を張って歌いつづけた杉田の姿には励まされたと,5年後の1975年発売の杉田のシングル「男どうし」に寄せたコメントに書いている。
e) ところで「この戦争をしらない」という若者たちが当時たくさん生きていた日本にあっては,米軍基地が散在していたのであり(いまもなおそうであるが),そのなかでもとくに沖縄県にある基地からは盛んに,ベトナムへ向かいB52が発進していた。
前段に歌詞を紹介してあった歌,「戦争を知らない子供たち」は,その意味を考えるさい
「戦時期(敗戦前)」-1945年まで
「GHQ支配期(敗戦後その1)」-1952年4月下旬まで
「独立後(敗戦後その2)」-その後
という敗戦後史の流れと,いったいどのように関係を有していたのか,いまだに不可解な残滓を抱えたままである。
f)「戦争を知らない子供たち」という歌は,実際,なにを歌い,なにを訴えたかったのか?
広島市の平和公園にある原爆慰霊碑には,「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」ということばが刻まれている
この文句には,「戦争をしらない歌」を作詞した者の気分・感情に通じるものが,それも,戦争の時代においては「親の世代であった父母たち」からこの「子どもたちの世代」にまで,確かに通じそうな〈なにもの〉かが感得される。
さてそれでは,昭和天皇の息子明仁はのちに,天皇位を父から継承し,平成の天皇になっていたが,この人(明仁)は,けっして「戦争の知らない子供たち」の1人には該当していなかった。1933年に生まれた彼のことであるから,皇太子の時代の出来事であったにしても,戦争の記憶・匂いをしらなかったわけではなかった。
かといって彼が本当に「父の大元帥時代の行跡」を客観視(客体視)できていたかといえば,疑問があった。平成の時代における明仁は,平和な時代における(これはあくまで日本国内での現象的な様相のことだが)「自家の生き残り戦略」を真剣になって画策してきた。
平民から嫁いできた正田美智子も長年,皇后の役目を演じているうちに,夫のその真情をよく理解し,ときにはとてつもない誤論を披露することもあった。たとえば,自由民権運動の流れのなかで生まれていた五日市憲法草案を我田引水に解釈した事実があった。それでも,皇室のありように一定の変動をもたらす役目は果たせた。
2)「戦後76年 戦後生まれを次世代の語り部に 羽毛田信吾・昭和館館長」『産経新聞』2021年8月14日 16:57,https://www.sankei.com/article/20210814-OHYCVCO53FNO7C3VMVRO4HUMKY/ に登場した羽毛田なる人物のぬるま湯的な,ないしは,タライ行水的な「昭和回顧観」の不徹底さというか浅薄さ。
--国民の8割が戦後生まれとなるなど,戦争を体験した世代の高齢化が進み,記憶の継承が喫緊の課題となっている。
東京都千代田区の「昭和館」では戦後世代の語り部育成や戦争体験者の証言映像の記録を進めており,羽毛田信吾館長(79歳)=旧厚生省事務次官,宮内庁元長官〔画像は前段で紹介〕=は「記憶の継承は時間との戦いで,いまやらなければならない」と強調する。
「高齢化で戦争の歴史や悲惨さをしっている人が減っているうえ,終戦直後の苦しい時代をしっている人も少なくなっているのが現実」。
羽毛田氏はこう危惧する。
総務省の人口推計によると,令和1〔2019〕年10月1日時点で,すでに戦後生まれは全国民の84.5%を占め,戦争体験者は減少の一途をたどる。
現代の若者にとっては両親や祖父母も戦争をしらず,日常生活で実体験に触れる機会は乏しい。羽毛田氏は「体験のない人にいかに実感をもって伝えられるかが課題だ」と指摘する。
補注)敗戦後史を回顧してみるに,サンフランシスコ講和条約が実効となる以前,アメリカ側からの「ウォー・ギルト・プログラム」,これは,占領期に連合国軍総司令部が,戦争の有罪性を日本人に認識させるための政策を実際に展開していた。
すなわち,そのプログラムによる「日本国民に対する洗脳政策」が実践されていた。しかし,それ以後においてはその反動の記録も併せて,自国の敗戦関係の史実は,都合の悪い歴史として学校教育のなかで希薄化させ,まともに教えなくなった。
歴史教育の現場では近現代史(敗戦をはさんで前後する時期)は,なるべくくわしくは教えないで回避する風潮があった。こうした事実はそっちのけにした状態で,いまごろ(ここではひとまず21世紀としておくが)「昭和をレトロ的に回想する歴史意識:生活関連のそれを」懐旧するかのごとき「精神史的な思考の貧困」は,覆うべくもない事実である。
〔記事に戻る→〕 昭和館では平成28〔2016〕年から,戦後世代を「次世代の語り部」として育成する事業を開始。戦争体験者に話を聞くほか,自分たちで現地調査もおこない,それぞれの切り口で発信の仕方を工夫する。3期生まで募集しており,研修終了後は語り部として委嘱し,同館や小学校などで講話をおこなうう。並行して,全国の戦争体験者の証言を映像として記録する「オーラルヒストリー」の収集事業も進めている。
補注)ところで,戦争体験とは「国内的な被害の事実(原爆や空襲,そして戦争死全般のこと)」だけでなく,「国外で大日本帝国自身がそうした被害者になった人びと側の存在が,実はそれ以前において早くから,他国への加害者になっていたという二重構造的な戦争認識」がともなわなければ,昭和館の意味は,半減どころかきわめて希薄な戦争認識にしか至りえないことは,理の必然である。
〔記事に戻る→〕ただ,新型コロナウイルスの感染拡大がこうした活動にも影を落とす。高齢の戦争体験者から話を聞くことがむずかしくなったり,昭和館が休館を余儀なくされて研修ができなくなったりしたこともあった。羽毛田氏は「高齢者が元気な間に話を聞くには時間が限られる。コロナ禍で影響が出ることにじくじたる思いもあるが,できることを着実に進めていくしかない」と述べた。
補注)このごろの日本国内では,戦争加害の問題痕跡として残る場所を極力,抹消・隠蔽しようとする動きが,戦争認識の問題にかぎらず盛んに蠢いてきた。
要は,自分たちの被害の記録はともかく針小棒大に,だが,他者に対する加害のそれはなるべく最小に,あるいは「全然なかったことにする」動向が,最近の日本社会では露骨になっていた。
日中戦争中,1937年に中国を侵略していた日本軍が,その年の12月に発生させた南京事件は「存在しなかった」などと,平然と唱える御仁がユーチューブ動画サイトで現に居る。
それも,比較的まじめに自分の分析や主張ができる人が,そのように破廉恥ないいぶんを真顔を語る態度をみせつけられると,呆れかえるよりは,この人も多分,社会常識のいろはからしてどこか壊れている〔教育を受けてきたのか〕とまで思いやられる。
元文科相次官前川喜平が2017年5月であったが,安倍晋三が起こしていた加計学園問題をめぐって「あったことをないことにはできない」と喝破し,当時まだ首相だった安倍晋三に逆らったことがあった。だが,このような人物は日本社会のなかではほんのごく少数派であった。
---------【参考文献の紹介:アマゾン通販】---------