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村上春樹『UFOが釧路に降りる』批評①ーどうして小村の妻はいなくなったかー

1.はじめに

 久々の批評だ。『僕の心のヤバイやつ』のイマジナリー京太郎について考えている時に、ふと『ドライブマイカー』を思い出して…。

「分身と亡霊って、何か違ったりするのかな?」

 なんて、疑問にとりつかれてから、村上春樹を読み直すに至り、しばらく本の虫状態と化していた僕である。

 そして、とりあえずサクッと読める村上春樹の短編集に手を出したはいいものの、これも、一筋縄では理解ができない作品ばかりで、僕は泣きたくなった。

 小説に純粋なエンタメを求める人は村上春樹を読まない方がいいと思う。それは、難解で、退屈で、作品の「贅肉」に惑わされるだけだから。

 そう、もう村上春樹なんて読まないと思うに違いなく、東野圭吾のミステリーを気持ちよく読んでいる方が何百倍もいい。

 でも、待って欲しい。

 生活の中でのふとした不安。底知れぬ憂鬱。口を開いている何か。不気味さと不可解に満ちた世界に触れたい人にはおすすめだ。

 どこかに連れ去られたい人、かどわかされて、見知らぬ場所に放り出されたい人には、村上作品ほど向いている小説もまたとないのだ。

 息苦しく暮らしているあなたの力になってくれると思う。風通しを良くしてくれる作品だと思う。村上本人は、それを、あなたの勝手と冷たく突き放すようなことを口するだろうけど。

 最近、キルケゴール『哲学的断片』を読み始めたのだけど、ソクラテスの産婆術について書かれている個所がある。

 ソクラテスは言う。ソクラテス自身も含めて全ては「きっかけ」に過ぎない、と。あなたが無知を自覚するための。そして、真理はあなた自身が想起するしかないのだ、と。

 村上春樹の態度はソクラテス流らしい。

 とにかく、僕は短編集『神の子どもたちはみな踊る』を読んだ。これが、僕の、最近の村上春樹との関わりであり、再会だった。

 この短編集には表題作を含め、六つの作品が掲載されている。六つの作品全てに、阪神淡路大震災の記載が含まれている。新海誠監督の三部作に比して、震災六部作とも呼べる。

 ただ、作家本人の倫理なのか、主人公が直接被災する話は出てこない。少し距離をとった形で扱われている。どれもこれも一様にそうだ。

 この六つの作品の中には『かえるくん、東京を救う』も入っている。この作品、最近どこかで耳にした人もいるのではなかろうか?

 この作品は、新海誠監督の震災三部作の三部作目『すずめの戸締り』がオマージュしている作品だ。それは、監督本人が口にしている。

 この作品では、扉から出てくる巨大な怪物がいる。それは、ミミズであり、これが、大地震を引き起こす元凶で、これを、扉の向こうに返すのが必要となるんだ。

 この、ミミズが大地震を起こすという発想こそ、『かえるくん、東京を救う』に出てくるのだ。これが、オマージュの中身だ。

 ちょっとは興味を持ってくれたかな。

 今回は、その、『かえるくん、東京を救う』を批評するかと言うと、そうじゃないんだよね、ごめんね。別の作品を批評させてもらう。

 『UFOが釧路に降りる』。

 この作品はこの短編集の頭に来ているんだけど、結構、僕的に、面白い作品だったから、批評してみようかなって、思っちゃってね。

 どういう話かっていうと、妻に突然去られた男が釧路に行く話なんだ。全く何も伝えられている気がしないけど、そういう話なんだ。

 この話を読み解くカギは<他者>。<>で囲むと、何だか、それっぽい用語に見えるね。それっぽい、そう、哲学っぽいっていうか、ね。

 <他者>ってのは、思い通りにならないもの、予測のつかないもののことを指すんだけど、<他者性>の方が、実は、汎用性が高いと思う。

 <他者性>、それは、思い通りにならない様、予測のつかない様ってこと。そんなに難しくないんだけど、これが、大事なんだよね。

 じゃ、ぐだぐだ「はじめに」を引っ張っても仕方ないし、批評に移るよ。全体の批評目標は<他者>との関わり方を明らかにすること、その関わり方と<自己>がどう関係しているか見定めること。

 そして、今回は的を絞って、どうして妻が突然いなくなったのかを批評していこうと思う。いやはや突然いなくなるって、穏やかじゃないよね。

 じゃ、行くね。

2.どうして小村の妻はいなくなったか?

 まずは、主人公と妻を軽く紹介した後、妻がいなくなるまでの経緯と、どこにいなくなったのかを説明し、どうして妻がいなくなったのかを描き出そうと思う。

 主人公の小村は社会の中で割と恵まれている人間だ。

 仕事は悪くないし(金持ち向けのオーディオ機器の販売をする会社のセールスマン)、職場の人間関係も良好(同僚に気の合う佐々木がいて、気を遣ってくれる上司がいる)。

 そして、顔も悪くないし(ハンサム)、性格も悪くないし(親切)、性愛でも満たされていて(女の子に苦労していない)、妻とは良好な関係を結んでいる(と、本人は思っていた)。

 一方、妻は、女に困ってない小村が、どうしてその人を選んだのか、周りから不思議がられるほど、顔も、見た目も、性格も、それほどいいとは言い難い人だ。

 しかし、小村は一緒に居て、心地いいと感じ、セックスも、満ち足りたものであって、妻との生活に満足していたのだった。

 ただ、妻は、時々、東京の狭苦しい生活を嫌って、山形にある、旅館を営んでいる実家の家族の下に度々帰省していた。だが、小村はそれを、大事とは考えていなかった。

 妻がいなくなるまでの経緯はこうだ。

 ある日、阪神淡路大震災が起こる。妻は、それが起こった日から、四日間ずっとテレビの前で、そのニュースを追っていた。小村が知る限りにおいて本当にずっと。

 小村が話しかけても、無反応で、声をかけることも止めてしまうほど、妻はそれに集中していたのだった。

 そして、五日後に、妻は失踪した。

 妻はほとんど全ての自分の荷物と小村の若干のコレクションとともに山形に帰省。妻は置手紙をしていたが、その内容は、こうだった。

 小村は「空気のかたまり」で、「私に与えるべきものが何一つない」のだと。だけど、「あなた一人の責任」ではないし、「あなたを好きになる女性は沢山いる」と。

 それから、山形の実家に電話してみると、妻の母が出て、離婚したいという妻の意志を伝言されて、小村は応じざるを得なくなる。

 人によっては、謎な展開だと思うが、また、人によっては、妻に深く共感できるのではないだろうか?妻が失踪した理由が分かったかな?

 キーワードの<他者>。ここでは、まず、阪神淡路大震災のことだ。それは、まずもって、妻にとって、画面越しにそれとして作用している。

 問題は、それが妻にどのように作用したかだ。

 地震、ことに、大地震ともなれば、突然起きて、人々の生活や命を一瞬で奪っていくものであり、死と密接な関わりがある<他者>である。

 ありきたりだが、妻はようやく気づいたのだ。いつ何が起こって、死んでしまうか分からない世界に生きているのだと。それは、そもそも世界がデタラメで、<他者性>に満ちていること、その理解だ。

 そうなると、被災して、あまつさえ死んでいたのは、自分だったかもしれないし、自分の家族だったかもしれないということになる。

 メメント・モリ(死を想え、自分に死が訪れるということを忘れるな)。

 死を想うことで、自分にとって、何がどれだけ大切なのかがはっきりし、自分が何をすべきなのかが見えてくる。

 appleの創業者で、imacやipod、iphoneを起草した、伝説的な人物、スティーブ・ジョブズも、大学の学位を特別授与された時に、卒業式の卒業スピーチで、その大切さを説いていた。

 妻にとって、小村よりも、山形の実家の家族の方が大切だった。端的に言えば、そういうことだ。だけど、その落差は何が作ったのか?

 いきなりだけど、嫁姑問題について考えてみて欲しい。

 夫が自分よりも姑、夫にしてみれば、自分の母を優先しているとか、妻である自分の味方でいてくれないとか、そういうことで、夫に対して冷めるってこと、よくあるらしいじゃん?

 小村の場合、妻は小村に対して特別な関わりがあると感じていないし、特別な感情も抱けていなかったということになるよね?置手紙の内容を見ても、それは、明らかで…。

 まずは、小村の方から、問題を見てみよう。

 さて、今回も『恋愛の授業』にご登場願おう。僕は今後も何度となくこの本を使うと思う。おすすめだから、読んでみると良いよ。

 この本の紹介は面倒なので、ちょっとだけ。大学の先生がドイツ語の作品を使って、「恋愛学」をやってるのを、本にしたって、そういうやつ。

 とにかく恋と愛の違いを語る時、一つの指標があるって、そういう話が出てくる箇所があって、それが、今回、ちょっと刺さるなぁって。

 恋は「私があなたに何を求めるか」と問うけれど、愛は「あなたは私に何を求めるか」を問うのだということ。この違いは大きいね。

 小村ってさ、結局、恋は知ってても、愛は知らない感じなんだよね。恋の機微は分かってても、愛は分からないって、そういうことなんだよ。

 だって、妻との生活について、小村は、自分が心地よくて、自分がセックスに満足していると、振り返ってはいても、妻がどう思ってて、何を求めているかが、あまり意識されてないんだ。

 どうして妻が山形に度々帰省するかにも向き合わないしね。

 これは、兆候、サインだったんだと思うよ。小村にとっても、妻にとってもね。どういう兆候だったのかは一目瞭然というかね。

 小村にとって、妻は妻でしかないんだよ、結局。

 意図的に、妻の名前が書かれていないのは、小村は妻の中身に興味がないってことなんだ。妻と真正面から、向き合う気がなかったんだろうね。

 妻の機能には愛着があっても、妻本人には関心がない。こう書くと、小村が外道で、小村ばかりが悪いように思えてくるかもしれない。

 だけど、それは違う。「あなた一人の責任」ではないからだ。

 妻も妻とて、小村と結婚したのは、夫の機能のためだったと思う。夫として、小村は良物件だったし、それは、周りの人もそう推していただろう。

 妻も、それで、悪い気がしなかったから、結婚したのだ。

 妻も妻で、小村と、そういう夫婦、つまり、お互いに機能を満たし合うだけの、実の所、特別な関わりや気持ちのない夫婦になっていたのだ。

 お互い様だったのだ。

 でも、妻はどこかしらで、それが、あまり良いとは感じていなかった。

 妻は、他人との関係に求めてしまうのだ、それ以上の関係を。お互いがお互い自身を目的とするような、役割や機能を超えた関係を。

 夫婦の機能や役割を超えた関係。夫との間にそれがないことに、どこかしらでずっと不満だったのではなかろうか?

 「空気のかたまり」なのは、小村が夫という記号的な存在に過ぎないということを表している。記号的で、中身のない存在である、と。

 そして、「私に与えるべきものが何一つない」のは、小村が、妻が本当は求めている関係を、妻との間で育もうとしないことを表している。

 あるいは、そもそも、そうした関係への感性というか、もっと言って、<他者>への感受性なるものが、小村の中にないことを表している。

 東京の狭苦しい生活を嫌って、山形に帰省?

 深堀すれば、東京は、役割や手続きに溢れていて、人もまた記号的に振る舞う、消費社会を象徴している街だ。それが、妻は苦手なのだろう。

 そして、山形は、まだ「しがらみ」(血縁と地縁)があり、人と人との腐れ縁がある、そんな、共同体社会を象徴している。絆のある社会だ。

 つまり、妻は絆を欲していた。

 結局、妻が小村と離婚して、山形の実家に戻ったのは、大地震で、妻自身にとって、「絆が大切だ」と気づいたからなのだろう。

 ちなみに、「あなたを好きになる女性は沢山いる」というのは、この点で、エッジの効いた言葉になっていることに注意したい。

 小村は、恋人として、夫として、世間的に望ましいと思われるものを持っている。だから、「沢山いる」けれど、絆を育むことはできない、と。

 ちょっと辛いね、これは。

  さて、今少し、別の角度、深さから、問題を語ってみよう。死という問題は変わらないけれど、それは、時間の限定、それも、不確かな限定の話では済まない。

 大地震にせよ、大災害にせよ、人間という存在を軽く凌駕する圧倒的なエネルギー量を伴って、この存在に襲いかかる時、人は何を想うだろう?

 自分がいかに弱弱しく、ちっぽけで、頼りないか、自分がいかに無力で、何もできそうにないか、思い知らされるのではなかろうか?

 これは、時間の限定だけなく、存在の限定、力量の限定に関係している。つまり、この時、妻には、大地震=<他者>があらゆる限定への気づきをもたらすように作用している。

 そして、そんな限定づけられた存在としての人間は寄り添い、支え合うことを望むのではなかろうか?何せ、このちっぽけさが不安をもたらすから。

 あるいは、こういうことかもしれない。人生がいかに無意味か気づいたということかもしれない。容赦なく、人生は終わったりするものだから。

 この憂鬱は、一瞬の享楽、個人が自由に自分らしく暮らしていける快感によっては、晴らすことのできないものなのかもしれない。

 この、人生は無意味だという絶望に浸ることも、それによって、全てに懐疑的でい続けることも、人は辛く、しんどいことのように感じるだろう。

 人と人との絆。支え合い、与えあい、お互いがお互いを目的として育み合う関係。愛が、不安を、憂鬱を、あるいは、晴らすのかもしれない。物事はそう単純ではないだろうけど。

 ここでも、社会論的な対立は明らかだ。

 「しがらみ」社会はもともと、そうした存在のちっぽけさを前提としているし、それを、癒すだけの懐の深さを持ち合わせているものだ。

 一方で、消費社会は、確固たる個人を、その力、その主体性、その自由を発明し、自分らしく選択していける社会ではあって、良い所もある。

 ただ、「しがらみ」社会にあったような、生きる上での不安や憂鬱を、深い喜びを、置いてけぼりにしてきた所がどうにもあるようなのだ。

 だから、高度経済成長期に、新興宗教は都市部において隆盛した。それが、社会の移行期、過渡期に現れる問題に対して、消費社会への移行に際する問題に対して、機能的だったからだ。

 これで、どうして妻が突然いなくなったのかを説明できたと思う。以上で、本編を閉じて、「終わりに」に移り、まとめを行いたいと思う。

3.終わりに

 村上春樹『UFOが釧路に降りる』を批評してきた。今回は、的を絞って、どうして妻が突然いなくなったのかをテーマにした。

 <他者>をキーワードにしてきたけど、効果的に使えたかな?

 今回、妻にとっての<他者>、妻に現れた<他者>、妻が遭遇した<他者>として、阪神淡路大震災がそれであると指摘し、それを起点とした。

 大地震は、いくら確率的な予測ができるようになった所で、突然に到来するものであり、圧倒的なエネルギーで以て、人々の生活と人々の生命を脅かす、つまり、死をもたらすもの。

 <他者>の定義に当てあまりそうだ。ゆくゆくは現れる<他者>の類型をまとめたいが、今は控えておく。今は、効果は何だったかを整理する。

 効果は、如何に自分がちっぽけな存在かを自覚するというものだった。

 それは、内面の深い喜びや人と人との繋がり、特に、支え合い、与えあう、お互いがお互いを目的とする、愛の共同体を目指すように作用した。

 逆に言えば、妻は小村との生活に、それを感じず、そして、東京での都市的な生活に、それを感じず、実家の家族、山形にそれを感じるということを意味した。

 ここで、社会論だけは整理しておきたい。また、社会論に付随する実存(生き方、生きてきるこのもの)上の問題を少し取り上げてみる。

 この表、宮台真司『<世界>はそもそもデタラメである』に負う所が大きいんだよね。いや、この拙い表の全責任は僕にあるけど。

 次回は、小村が釧路で、釧路行きの用事を作った同僚の佐々木の妹のケイコに、妻が死んだと兄から聴いたことを聴いたという話を掘り下げる。

 では、ごきげんよう。

 

 


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