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「学校に行かずにゲームをし続けちゃいけないの?」と子供に聞かれたら

そんなことを考えてみると、
親として自分は何と答えるのだろう。

学校なんてくだらない、行っても意味がない、そんなことよりしたいことをやってる方が楽しいんだから

子供がそんな風に言ってきたとき、自分はなんと思うだろう。

自分にも子供の時があった。学校をサボってゲームをしたい、アニメを見たいと思っていたこともあった。しかし、親からは学校に行きなさいと怒られ、僕はついには学校をサボったことも引きこもったこともなかった。
結果的に行ってよかったとも思う。
仲間がたくさんできたこと、
いろんな素敵な思い出が出来たこと、
しかしその裏では、
辛い思いをしたこと、
やりたくない勉強を嫌々やっていたこと
頑張ったのに、受験で落ちてしまったこと
たくさんの経験が、学校に行ったことによって得られたのも事実である。

ーーー

僕はたぶん、こう答えるだろう。

「学校を休んででもやりたいことはなに?」

全ての選択は、
自らの主体的な意思と
その夢に出資してくれる人との関係で成り立つのではないだろうか。

例えば。

1歳の子供が机の上によじ登り、その机から頭を出して床に降りようとする。
これは、子供の意思では「おりたい」という思いがあるからである。
その思いを僕たちは否定してはいけない。
しかし、あらゆる選択には、リスクとリターンがある。
もしリスクがあまりにも大きいなら、それは親が止めてあげないといけない。子供にはまだ、リスクとリターンの比較ができないことがある。

「学校を休んででもやりたいことはなに?」

この質問には、相手の思いを否定しないという意思があるが、さらにその先に、
子供がリスクとリターンを現実的に卓上に乗せて検討しているかを問うている。

そして、ビジネスにおいてもそうだが、
出資してくれる人は、自分のリターンがあると推測できる状況があって初めて出資をし、
その出資がないとビジネスは成長していけない。
この関係は他人と自分、友達同士、そして親子でも存在しているのだ。

学校を休んででもやりたいことがゲームだったとしよう。
そしてその先に、僕はゲームで食べていきたいという思いがあったとする。
その思いは僕は否定しない。
しかし、その子にとってのリスクとリターンを考えてみる。

学校にいくリターン
学校を卒業すると卒業証明が与えられる。
そのことで、就職できる幅が広がり、将来ゲームで食べていけないと進路を変更する際にも大いに役立つ時がある。
仲間ができ、将来お互いに助け合える人脈が増える。
大学に進学できる可能性も広がり、より大きな可能性を見出せる。

学校にいくリスク
いじめられることもある。
高校、大学ともなると学費がぐんとあがり、家計に影響する可能性が高くなる。
面白くない授業を受けないといけないと思う人もいる。

休んでゲームに勤しむリターン
やりたいゲームをずっとすることができる。
時間を気にせずにでき、そしてゲームで食べていくという夢には近づいていく。
めんどくさいと思う授業を受けなくてすむし、学校が楽しくないのならそこから回避できる。

休んでゲームに勤しむリスク
学校の卒業資格が得られなくなる。
学校に行った場合と比較すると、仲間ができにくい。(オンラインではまた別の仲間ができるが、オフラインほどの仲は気付きにくい)
ゲームは飽きることもある。
そのゲームが市場で衰退したとき、そのゲーム技術が自分の武器にならなくなる可能性がある。
同学年の人とのコミュニーケーションが取りづらくなる。

そしてさらに、親としては、学校を休んでゲームに勤しむことを想定した際に、その先にあるリスクを考えると、そこに出資したくなくなることもありそうだ。
もし、そこに大きな才能や、休んででも時間をかける対象が、その子の人生にとってハイリターンなものがあると思えるなら話は別だが。

ーーー

つまるところ、選択肢は全てが平等に並べられて良いということなのだろう。
そこに正解も不正解もなく、善も悪もないのだ。
全ては、その選択肢により得られるリスクとリターンを洗い出し検討を行う必要がある。
子供からの目線で考えると、
出資してもらう親に対して、自分の思いが未来につながると思わせるようなストーリーと、熱意がそこにあるかどうか。
目的と逃避がごっちゃになっていないかどうか。
そこを一生懸命考える必要があるのだろう。

状況によって、転校することも、通信教育を受けることも、教育を受ける方法はいくらでもあるし、
学校がその子の生命を脅かすリスクになり得そうな状況であれば、未来のリターンを予測しその場所から逃避することも毅然とした選択であるだろう。

現代においては非常にフレキシブルに対応することもできるため、親と子で、同じ目線で、リスクとリターンとをしっかり考えたいものである。


とにもかくにも、

子供の意見に対して、私たち大人の常識というバイアスを通してのみの意見を押し付けないようにしなければならない。
時代は進む。教育を取り巻く思考や経済環境も変化している。
上も下も、善も悪も、正解も不正解もない。

子供の目の輝きを失わすことがないように、
共に同じ目線で考えられるように、
一緒に生きていきたいとそう願う今日このごろであった。

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